Red Notebook 『ウィッシュ』100年の歴史を駆けろ! RTA 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2024年04月27日 (Sat)
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2023年12月14日 (Thu)
 幸運にも試写会に当選したため、『ウィッシュ』を見てきました。ちなみに吹き替え版です。以下つらつらと感想を書きますが、特にミュージカル・ナンバーは意訳されていることが多く、吹き替え版を見ただけでは本来の作品が持つ文脈を見落としている可能性が高いので字幕版を見たら印象が変わるかもね〜。(予防線を張るオタク)


ディズニーが満を持して手描き風3DCGアニメに参入
 さて、近年の(ディズニー・ピクサー以外の)アメリカのアニメーション映画に目を向けてみると、世はまさに大「2Dアニメ風3DCG時代」を迎えています。このジャンルでのゲームチェンジャーだったソニー・ピクチャーズ・アニメーションの『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)や続編の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)を筆頭に、ドリームワークス・アニメーションの『バッドガイズ』(2022)、『長ぐつをはいたネコと9つの命』(2022)、故ブルースカイ・スタジオ(……)から引き継がれたアンナプルナ・ピクチャーズの『ニモーナ』(2023)、ニコロデオンの『ミュータント・タートルズ: ミュータント・パニック!』(2023)などなど。(ソニー・ピクチャーズの『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)もこの流れに入るかな?)
 これらの作品はそれぞれが独特のスタイルかつド傑作揃いという、いや~、アメリカのアニメーションは素晴らしい時代を迎えていますね……。(しみじみ)
(あと、スペインの製作会社ですが逆に手描き2Dアニメを3DCG風にしたSPAスタジオの『クロース』(2019)みたいな例もあります)


 そして今回、『ウィッシュ』も、この「2Dアニメ風3DCG」の潮流に乗っかっています。 上記ツイート(改め、ポスト)の特に4枚目の画像を見てもらうと、あえてキャラクターの主線を描写しているのが分かると思います。
 これまでディズニーやピクサーのCGアニメーションは「リアル」な質感を追求しており、逆に言えば他スタジオの2D風はその対抗路線だったとも言えます。

 ディズニーも『シュガー・ラッシュ』併映の「紙ひこうき」(2012)や『ベイマックス』併映の「愛犬とごちそう」(2014)など、3DCGを手描きアニメーション風にした短編アニメーションの例はあったものの、長編アニメーションが作られるまでには至っていませんでした。
 では、2Dアニメ風3DCGは何のために使われているのか。たとえば『スパイダーバース』ならばコミックブック風のビジュアルの再現、『長ぐつをはいたネコと9つの命』であれば(おとぎ話の登場人物が集まるというストーリーから)絵本風の質感を採用していました。
 であれば、これまでずっとリアル路線の映像で勝負してきたディズニー・スタジオが今回の『ウィッシュ』での2D風3DCGを採用したのは、過去のスタジオの手描きアニメーションの伝統に敬意を払う、という意味でのものなのでしょう。
 ……というのは見る前から予想していたのですが、予告編を見た限りでは「うーん、あんまり過去のディズニーの手描きアニメっぽさは感じないなあ……」と思っていました。

 ところが実際にスクリーンで見てみると、本丸は「背景」だったんです。
 めちゃくちゃディズニーの手描きアニメの背景っぽい!!!!
 水彩風の質感もそうなのですが、『眠れる森の美女』の背景を思わせるような木々のデザインが随所に取り入れられているのも平面感を強調し、功を奏している気がします。


 他スタジオの2D風3DCGアニメーションに見られるようなダイナミックなカメラワーク、リミテッド・アニメーションのような大胆な緩急、あえて歪んだ造形…といったような作風に比べると、端正でおとなしすぎるきらいはあるものの、『ウィッシュ』が指向するのは「伝統的なディズニーアニメーション」の作風なのですし、3DCGアニメーションでこんな昔のディズニーアニメーションみたいな背景ができるんだ…。というのにいたく感動したので、映像の狙いについては、この背景だけでじゅうぶん成功していると言えると思います。

『プリンセスと魔法のキス』との対比に見る「願い」
 ディズニー100周年を記念する作品のタイトルが『WISH』と聞いたら、それなりにディズニーに親しんできた人なら「なるほど、ディズニーらしさを込めたタイトルだな」と感じると思います。

 改めて説明するまでもなく、「願いをかける」というのはディズニー・スタジオ長編アニメーション第一作の『白雪姫』の「私の願い(I'm Wishing)」にはじまり、『ピノキオ』の「星に願いを(When You Wish Upon A Star)」から『シンデレラ』の「夢はひそかに(A Dream Is A Wish Your Heart Makes)」と、ディズニーのトレードマークともいえるキーワードです。
 本作の邦題を『アーシャと願いの星』みたいな『(主人公の名前)と●●の△△』方式(ex.『メリダとおそろしの森』『アナと雪の女王』『モアナと伝説の海』『ラーヤと龍の王国』『ミラベルと魔法だらけの家』etc....)にせず、あえて原題の"WISH"をそのまま採用したところにも、ディズニーの歴史とこの一語は切り離せないというプライドを背負ったタイトルだから、という配慮を感じます。

 さて、反面この「願いをかける」というディズニーのトレードマークに関しては「願ってるだけで努力しなければ願いは叶わないだろ」という批判も多くなされてきました。これを受けて、『プリンセスと魔法のキス』(2010)では主人公のティアナ自身が「願うだけ」という姿勢を批判し、「ただ願ってるだけじゃだめ、努力しなきゃ」と奮闘するという、メタな展開が盛り込まれています。

 『プリンセスと魔法のキス』(2010)は『チキン・リトル』(2005)以降、『ルイスと未来泥棒』(2007)『ボルト』(2009)と3DCGアニメーション路線になっていたディズニー・スタジオが久々に手描きアニメーションに回帰した作品であり、「これまでのディズニーの伝統を祝福しつつ、未来に踏み込む」位置づけでもありました。
 要するに『ウィッシュ』と立ち位置がめちゃくちゃ似ています。ちなみに、『プリンセスと魔法のキス』のティアナはディズニー長編アニメーション初の黒人主人公でしたが、『ウィッシュ』のアーシャもディズニー長編アニメーション初のアフロラティーナ(アフリカ系ラテンアメリカ人)の主人公です。
 『プリンセスと魔法のキス』の過去のディズニー作品のお約束へのメタ的な視点、過去作を想起させるイースターエッグ、といった要素が『ウィッシュ』にもありますが、特にメインテーマは『プリンセスと魔法のキス』で描かれた要素を発展させています。

※ここから先、ネタバレありの感想です。※



 『ウィッシュ』で語られるのは、「願っただけで努力せずにいると、願いすら奪われてしまう」という教訓。「誰かが願いを叶えてくれる」と期待すると、手痛いしっぺ返しを食らうということです。「願い星」であるスターも魔法の力を持ってはいるけれど、願いを叶えてくれるわけではありません。『プリンセスと魔法のキス』でティアナのお父さんが"But you remember, Tiana, that the old star can take you only part of the way. You got to help it along some hard work of your own.(でもティアナ、忘れちゃいけないよ。星は手助けをしてくれるだけ。自分で努力することが必要だ)"と語ったように、星はあくまで願いの手助けをしてくれるだけなのです。
 『ウィッシュ』では、「願い」は「力」として描かれます。マグニフィコ王が人々の「願い」から力を得るのと同様に、クライマックスでは国民たちを奮い立たせる力になる。「願う」だけでは何も得られませんが、しかし「願い」がなければ立ち上がることは難しい。願いを奪われ、王に飼いならされていた国民たちは、アーシャの「願い」に呼応したからこそ立ち上がる力を得るのです。民衆が団結して立ち上がるシーンは、「本当に強力な魔法は願いであり、それを原動力に立ち上がるあなた自身なのでのある」という、美しいメッセージになっていたと思います。
(反面、結局するのは「願う」ことだけかい、というふうにも見えてしまう部分はあります)

 しかし、「勝手に星に『何か』を見ても、恋をしても、結局ははるか彼方のガスの塊にすぎないし、あなたが語りかけても沈黙でしか答えない。でも、奇跡が願いに応えてくれたかのように見える瞬間もあるのだ」……という『プリンセスと魔法のキス』の大人でありながら温かみのある距離感に比べると、「星」自体をキュートなマスコットキャラにしちゃうのはどうかなあ、と思いつつ、まあ、スターちゃんは最高ウルトラキュートなのでヨシ!

アーシャの「願い」は何だったのか
 ディズニーのミュージカル・アニメーション(特にディズニー・ルネサンス以降の作品)においては"I Want" Songと呼ばれる、主人公が自分の望みを歌うナンバーが定番化しています。
 前述の『白雪姫』の「私の願い」、『リトル・マーメイド』なら「パート・オブ・ユア・ワールド」、『ノートルダムの鐘』の「僕の願い」、『ポカホンタス』の「川の向こうで」、『ヘラクレス』の「ゴー・ザ・ディスタンス」、『アナと雪の女王』の「生まれて初めて」、『モアナと伝説の海』の「どこまでも~How Far I'll Go~」などなど、枚挙にいとまがありません。これらのナンバーは主人公が何を求めているのか、どんなものに惹かれるのか、キャラクターを伝える意味でも大きな役割を果たしていました。
 『ウィッシュ』の中でも、冒頭のディズニー恒例本による設定説明で「願い」はその人自身を形作るものって言われてた気がする。(うろ覚え)
 とにかく、今作でこの"I Want" Songにあたるのが、宣伝でも大きくフィーチャーされているそのものズバリのタイトル、"This Wish"(ウィッシュ~この願い~)です。 "This Wish"で歌われるアーシャの望みは、「みんなが願いを取り戻すこと」。"So I make this wish to have something more for us than this"というサビだけ聞くと何のことやらよく分かりませんが、劇中の状況と合わせて解釈すると「みんなの願いがマグニフィコ王に握られている現状より、より良い『何か』を望む」というところでしょうか。
 アーシャ自身は「優しすぎる」と評されるとおり、常に周囲のことを考えているというのは分かるのですが、最も大事な「主人公の望み」を表すナンバーすら「みんなにとって良きこと」ですし、その後の行動原理も祖父(サバ)の願いを守るため、みんなの願いを守るため、でしかないので、どうしても彼女自身のキャラクター性が見えず、ストーリー(テーマ)のために奉仕するキャラクターに見えてしまいます。「自分や家族の願いを叶えてもらいやすい」と言われるマグニフィコ王の弟子に応募しているのだから、サバの願いに加えて、アーシャにも叶えて貰いたい自分自身の願いがあったはずなのですが……。

 そもそもなんですが、「マグニフィコ王に願いを預けると自分の願いを忘れる。運が良ければそのうち願いを叶えてもらえるし、願いを忘れてるから願いが叶わなくて傷つくこともない」っていう設定、めちゃくちゃ無理がないですか?
 普通、こう言われて「そうなんだ! じゃあ安心だね!」ってならないと思うんですよ。「願いを忘れちゃったら人生のモチベなくならないかな…」って心配になりますし、忘れてた願いが叶ってもそんなに嬉しくなさそうな気がする。いや、「買ったあと存在を忘れてた宝くじが当たってた」的な嬉しさはあるのかもしれないですが……。
 「王の弟子やその家族は願いを叶えてもらえる」というセリフからしても、国民にもうっすら「願いを叶えてもらえない場合もある」という認識がありそうなんですよね。そうすると、人々が求めていたのは「願いを叶えてもらうこと」というより、「叶わない願いを抱いて悲しむリスクをなくすこと」だったように思える。
 「願いが叶わないという失望を味わうくらいなら、願いを持っていたことすら忘れた方が安心できる」という考えの人がいることは否定しないですが、そんな全員が「失望を予測しておけば本当の意味では失望しない」というMCUのMJみたいな悲観的なメンタルの人ばっかりのコミュニティ、「ここは楽しい魔法の王国」みたいな雰囲気になるかなあ……。
 「『願い』の力を称揚する」というクライマックスに持って行きたい→そのためには人々の願いが奪われている状態にしたい→じゃあ願いを騙し取ってる奴を悪役にしよう、という発想なのだと思うのですが、クライマックスをこうしたい!という意図が先行しすぎて、設定の不自然さが拭えません。
 せめてサバでもアーシャの亡くなった父親でも、なぜロサスにやって来たのか、なぜ願いが叶わないことをそれほど恐れたのか、という過去エピソードが語られていれば、(そして終盤で「たとえ願いが叶わなかったことに失望したとしても、『願い』が生きる力を与えてくれることは変わらないじゃないか」と住民たちが納得するという展開に持っていけば)、クライマックスで民衆が願いの力を発揮する展開にもっと説得力が出るし、そもそもの設定にこれほど違和感を感じることは無かったと思うのですが……。
 もしくは、アーシャの父親はマグニフィコに願いを預けることなく生きていたけれど早くに亡くなっているという設定にして、クライマックスでアーシャを追い詰めたマグニフィコが「君は私がみんなのためを思ってこうしているのを分かってない。君のお父さんだって、願いを私に預けていれば失望したまま亡くなることはなかったのに」と語るのに「お父さんの願いは叶わなかったかもしれないけど、願いを胸に生きてきた彼は幸せだった」と反駁するアーシャを見て、みんなが願いの力に気づく、とかさ。いや、これじゃまんま『プリンセスと魔法のキス』か。
 でもアーシャの父親については彼女の精神的支柱になっているわりにほとんど語られないので、元は彼と彼の願いに関する考え(アーシャの父親は哲学者だったので)が語られるエピソードが盛り込まれる予定だったのじゃないかなあと予想しています。

革命を起こせ!
 さて、アーシャは魔術師のマグニフィコ王に弟子入りするために面接を受けるものの、実は魔術師には裏の顔が! 秘密を知った主人公は魔術師と敵対! 民衆を扇動して主人公を追い詰めようとする魔術師! という「めっちゃ『ウィキッド』やん」という展開を迎えます。
 ディズニーのヴィランといえば『眠れる森の美女』のマレフィセントや『101匹わんちゃん』のクルエラ、『リトル・マーメイド』のアースラなど、アイコニックなキャラクターが数多く登場しており、ディズニープリンセスと並んで(?)、ディズニーアニメーションを象徴する存在になっています。彼らの特徴は狡猾で邪悪であると同時に、カリスマ的でスタイリッシュ、どこかエレガントというところでしょうか。卑劣な悪役たちは、主人公と同様かときにはそれ以上に、私たちを楽しませてくれます。

 しかし、最近のディズニー長編アニメーション作品には、パッと見の「わかりやすい悪役」が登場していませんでした。『シュガー・ラッシュ』(2012)『アナと雪の女王』(2013)『ベイマックス』(2014)『ズートピア』(2016)あたりは「実は意外なあの人が悪役!」展開がブームでしたし、『ラーヤと龍の王国』(2021)は「あいつもいろいろ苦労してんのさ……」という和解エンド、『ミラベルと魔法だらけの家』(2021)や『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』(2022)は家族内での対立がテーマで、明確な悪役は存在しませんでした。『アナと雪の女王2』(2019)『シュガー・ラッシュ 2』(2018)も、明確な悪役がいない物語です。
 『モアナと伝説の海』(2016)のタマトアはかなり古典的なディズニーヴィランの系譜ですが、いわゆる「ラスボス」ではないので、カウントするか微妙なところ。
 分かりやすいメインの悪役ってもしかして、『塔の上のラプンツェル』(2011)のゴーテル以来…?
 というわけで、『ウィッシュ』のマグニフィコ王は、「久々のディズニーヴィランらしいディズニーヴィラン」と言われています。『美女と野獣』のガストンを思わせる民衆人気やルックスの良さとそれに伴ううぬぼれ、『白雪姫』の女王(魔女)や『眠れる森の美女』のマレフィセントのような魔法、オチが『アラジン』のジャファーを想起させる点などからも、「いわゆる古典的なディズニーヴィラン」を強く意識して作られているキャラクターです。 ただし、(観客は予告編やポスターから察しており、ネタばらしも早い段階であるとはいえ)人々の願いを叶えるはずのマグニフィコ王が実は悪い奴だった!という展開に関して言えば、2010年代の『アナ雪』『ベイマックス』あたりの「いい人と思われていたキャラクターが実は……」という流れにもあたりますし、何より『アナと雪の女王2』(2019)あたりから始まった「王国(≓ディズニー)の負の遺産と向き合う」という反省ムーブの中にあると思われます。王制をロマンティサイズしてきた過去の作品群に対する反省であるとともに、テーマ的な部分で言えば「人々にただ『願いをかけること』だけを奨励するのって、良くなかったんじゃね……?」というわけですね。100周年記念の看板を背負った作品で過去の自社作品が与えてきたネガティブな側面を悪役にするという、なかなか思い切った設定です。
 とはいえ、前述の『プリンセスと魔法のキス』の「星に願うこと」の扱いや、『アナと雪の女王』のアナとハンスの「出会ったばかりの男と婚約」ロマンスの劇中での批判など、自社作品が受けてきた批判をメタ的に取り入れること自体は、わりとディズニーあるあるムーブでもあります。
 さて、では『ウィッシュ』での王制ロマンティサイズ反省ムーブはどのように描かれているかというと、マグニフィコは民衆を庇護するという名目を掲げながら、実際には彼らを自分の思うようにコントロールしようとしているキャラクターとして描かれ、アーシャと仲間たちが打倒マグニフィコを誓うミュージカルナンバー「真実を掲げ(Knowing What I Know Now)」では、「革命」という言葉すら飛び出してきます。(歌詞検索したら原語でもrevolution言っとる)

 このあたりでもう、「嘘、マジでやるのか……? ディズニーが『革命』を……?」とドキドキしてきます。しかも、『アナと雪の女王2』のアナやエルサは王制側の人間なのに対し、アーシャやその友達は王族ではない。これは本気かもしれない……。という期待が高まります。
 そして終盤。
 やりました。民衆がひとつになり、王を打ち倒したのです。そして、アーシャは叫びます。
「女王陛下万歳!」
 いや、結局王制維持は変わらないんかい!!!!!!!!!

 このくだり、『アナと雪の女王2』でもやったわ。古き王制の負の面を象徴する城が破壊され、しかし古き権威など問題ではない、民こそがアレンデールの本質なのだと気づくのかと思ったらバッチリ城が守られてハッピーエンドになったときに言ったわ。
 いやまあ、13世紀ごろが舞台(たぶん)なのに王制が打ち倒されたらやりすぎでしょ、というのも分かるのですが。(でも、13世紀の森の動物が星は巨大なガスの塊だということを理解しているのに…??)
 しかし『ウィッシュ』は一人の権力者に大きな力を委ねるのって危険だね、という教訓があり、民衆にこそ本当の力があるのだ、というのがクライマックスという展開まで経ているので、「『アナ雪2』からの流れでそっちが王制ロマンティサイズ反省ムーブ始めてきたのに!?」という、なんだか中途半端に放置されてしまったような気持ちになります。
 というわけで結局、自国の民を苦しめる「悪い君主」が倒されて「良い君主」が取って代わる、という『ロビン・フッド』(1973)や『ライオン・キング』(1994)と同じオチでしたとさ。ディズニーもあと100年後くらいには王制が倒される物語をやるかもしれないね。

【2023.12.17追記】
 パンフレットによると、マグニフィコ&アマヤは初期設定では夫婦そろって悪役だったそうです。その後設定が見直され、悪役はマグニフィコだけになったとか。それってやっぱり、最初は「王制打倒」の話をやろうとしていたってことでは…? 何らかの理由で上からストップがかかったとか、製作陣が日和ったのでは…と邪推してしまいました。
 あと、私は『ミニオンズ』のスカーレット・オーバーキル&ハーブ・オーバーキル夫妻が大好きなので、ディズニーでも美男美女悪役夫婦見たかったよ~!!

 ところで、ディズニーアニメーションの悪役で既婚者かつ、配偶者が存命で映画内で活躍するキャラクターって珍しいですよね。
 ディズニーのアニメーションって主人公側はカップル、悪役側はシングル、という描かれ方ばかりなのがちょっとな、と思っていたので(『101匹わんちゃん』のクルエラなんて原作では既婚者なのがわざわざ配偶者の存在をオミットされてる)、マグニフィコが既婚者かつヴィランだったのは好きなポイントでした。



イースターエッグ・みだれうち
 『プリンセスと魔法のキス』公開時、この作品が気に入らなかったという、とあるディズニー好きの人が書いたブログで印象深く覚えていることがあります。ひとしきり作品が気に入らなかった理由(この部分はもう忘れました)を並べた後、「だいたい、過去のディズニー作品を想起させるシーンを入れて、製作陣はこれで何を伝えたいの? 過去の作品を思い出してねってこと?」(大意)と憤慨していたのです。
 私は『プリンセスと魔法のキス』は大好きなので、この感想を読んだときには「ファンサービスでしょ。そんな噛み付くほどのこと?」と不思議に思ったものです。
 しかし、今はこの人の言いたかったことが何となくわかります。
 つまり、この手のイースターエッグというのは観客が作品に好意を持っている場合は「愛を感じるお楽しみ」として機能するけれど、逆の場合には「過去の作品に対する観客の愛情を利用して目眩しするな。ていうか細部にネタを仕込んでるヒマがあったらまず本筋をなんとかしろ」とイラつかせるという、諸刃の剣なわけです。イースターエッグって、難しいね…!
 『ウィッシュ』に関して言えば、前述の「願い」に関する無理のある設定、アーシャがストーリーに奉仕するためのキャラクターになってしまっていることなど、「ディズニー100周年」という看板を背負っているがゆえの、「ディズニー的なるもの」の抽出というコンセプトばかりが先行してストーリーがおざなりにされているように見えるマイナス面が、大量のイースターエッグによって余計に強化されているように思えます。

 私は『ウィッシュ』に関してそこまで否定的というわけではないのですが、オマージュイースターエッグパロディのオンパレードは、さすがに食傷気味になりました。さりげなかったり、ポイントを絞っていればクスリと笑えるレベルであっても、あまりにあからさまだったり、数が多すぎると「疲れる」「気が散る」レベルになってきます。
 アーシャの友達が『白雪姫』の七人の小人モチーフなのはキャラが覚えやすいし、アーシャの衣装が『シンデレラ』のフェアリー・ゴッドマザー風だとかは後の展開の伏線でもあるので良いとしても、マグニフィコが『ピーター・パン』や『メリー・ポピンズ』の内容を口にしたり、動物がとんすけっぽかったりわざわざバンビだの(リトル・)ジョンだのの名前を出したりピーター・パンまんまのモブが出てくるのとかエトセトラエトセトラエトセトラは、さすがにあからさますぎてしらけてしまいました。あと妙にピーター・パンネタが何回も出てくるのは何なんだ。
 ファンサービスが主眼の併映短編「ワンス・アポン・ア・スタジオ 100年の思い出」もあるのだし、そこまでやらなくても……という気持ち。
 だって、ファンが「ディズニー100周年」という看板の長編作品に期待するのって、「いかに過去作品への愛を見せてくれるか」ということよりも、「ディズニーのこれからの100年の幕開けとなる、比類なきド傑作であってほしい」ということじゃないのかな。少なくとも私はそうでした。ディズニーには世界のアニメーションをリードしていってほしいのであって、内輪受けに終始してほしいわけではないので……。
 まあ、こういう小ネタをひとつひとつ見つけていくのが楽しいんだ!オタク冥利に尽きる!という人もいることは否定しませんが。
 しかし、過去ディズニー作品のイースターエッグ乱れ打ちに愛を感じて欲しい!という『ウィッシュ』の製作陣に応えるべく、この感想記事もディズニーの過去作品タイトルを連呼するスタイルで書いてみました。わはは。

【2024.12.17追記】
 字幕版で2回目を見てきました。印象が変わった部分はいくつかあったのですが(「誰もがスター!(I'm A Star!)」のシーンは意味不明タラコ唇ワニタイムシーンだと思ってたら、字幕で見たらちゃんと意味がわかったとか)、ブログに感想を書いた部分については大きく変わっていません。
 ただ、二回目を見るとすでに知っているイースターエッグを無視することができるため、よりストーリーに集中して見ることができました。やっぱりこのあからさますぎる大量のイースターエッグ、ノイズになっているのでは…という思いは強くなりましたね。

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