Red Notebook 『アナと雪の女王』と、お姫様ではない女の子の話 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2024年11月23日 (Sat)
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2014年02月26日 (Wed)

イギリスに旅行をした際、一足お先に見てきました、『アナと雪の女王』。

以下は感想というか、私なりの解釈というか。予告編等から分かる以上の物語の核心には極力触れていないつもりですが、やはりネタバレありますので注意。
本文は「続きを読む」からどうぞ。



 

 

今作はディズニーの十八番、「プリンセスもの」として宣伝されています。それも、「ディズニー史上初のWプリンセス」。けれども実際には、主人公の一人でプリンセス姉妹の姉であるエルサは物語の序盤で「お姫様」から「女王」になります。タイトルも、『アナと雪の「女王」』。そう、この映画の半分は、「お姫様ではなくなった女の子」の物語なのです。

 

ではエルサが「お姫様」から「女王」になることには、どんな意味があるのかというと。

「お姫様」と「女王」の重大な違いとして、「お姫様」は実質的な権力を持たない少女(的)であり、「女王」は大きな社会的責任を負う、大人の女性であるという点が挙げられます。

 

「お姫様」に憧れるというのは「少女」であることに憧れることに非常に近いと言えるかもしれません。言うなれば「お姫様」は究極の「理想化された少女」なのです。多くの女性がプリンセスに憧れるのは、とかく女性については「少女的である/若い/かわいらしい」ことが良いことだ、という強固な価値観が根付いているからだとも言えるでしょう。ディズニーのプリンセスたちは見た目も心根も美しく、最後には必ずハッピーエンドを掴みます。

 

それに対して、大人である「女王」は『白雪姫』の女王(エヴィル・クイーン)、『ふしぎの国のアリス』のハートの女王、『魔法にかけられて』のナリッサ女王など、多くの場合悪役として描かれてきました。さらに言えば、女王は「魔女」でもあります。ナリッサ女王が『眠れる森の美女』のマレフィセント的な要素を多分に受け継いでいることを考えれば、魔女であるマレフィセントもまた非常に「女王」的です。

 

「少女であるお姫様は善」「大人の(年取った)女である女王(魔女)は悪」という構図はディズニーに限ったことではありません。昔からおとぎ話には「お姫様は若く美しい」「魔女は醜く年老いている」というステレオタイプが何度も登場します。けれども、「お姫様」と「魔女」は本当は鏡合わせの存在であり、同じ「女」が若いときの姿であるか、年とった姿であるかの違いにすぎません。どんなお姫様の中にも「魔女」が潜んでいるのです。(このあたりは若桑みどりさんの『お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』で、わかりやすく解説されています。)

 

『アナと雪の女王』において、戴冠式を境に、エルサは「お姫様」「少女」であることを卒業しなければならなくなります。彼女は「大人の女性」「女王」にならなければいけません。彼女の戴冠式は、成人の儀でもあるのです。「大人になる」ことは、誰にとっても難しいことです。そして女性にとってそれは同時に、社会は彼女を「少女性/若さ/かわいらしさ」を失った存在として扱うということを意味します。女性の価値を若さで決めたがる社会において、これは非常に恐ろしいことです。エルサは、本当は時間を凍らせたかったのかもしれません。

 

さて、「女王」になったことによって、彼女はともすれば「悪役」になってしまう、危うい位置に立たされることになります。『眠れる森の美女』におけるマレフィセントは「霜で花を枯らす」と言われているので冬をもたらす存在のようですが、エルサが同じような事態を引き起こしてしまうことも、女王になった彼女が「魔女」的な位置に立たされていることを表していると言えるでしょう。民衆の恐怖を象徴するウェーゼルトン公爵は、エルサを「魔女」「モンスター」と呼んで責めたて、物語の中盤におけるエルサの行動には、悪役的要素も見え隠れします。(実際、当初エルサは悪役として描かれる予定だったとか)

 

『少女革命ウテナ』に、「お姫様になれない女の子は、魔女になるしかない。」というセリフがあります。そして、お姫様でいられなくなったエルサには、まさに魔女になる道しか残されていないように見えます。エルサの声に『ウィキッド』で西の悪い魔女、エルファバを演じたイディーナ・メンゼルを起用したのは、エルサとエルファバが似たキャラクターであるということももちろん、彼女が持つ「魔女」というイメージが重要だったからなのでしょう。

 

けれども、ディズニーはエルサを悪役にはしません。さらに、彼女が「王子様によって救われる」=「男性に選ばれる」ことによって、もう一度お姫さまになるという選択もしません。彼女を救うのは王子様ではなく、妹であるアナの愛です。

今までプリンセスストーリーを描き続け、再生産してきたディズニーだからこそ、「お姫様になれない女の子は、魔女になるしかない」という呪いから女性を救う責任があったのではないでしょうか。そしてこの物語は、まさにその救いを描こうとしているように思えます。

 

この映画のもう一人の主人公、アナは、アリエルやラプンツェルのような、好奇心旺盛で行動的な女の子として登場します。彼女は「魔女」になりかけたエルサと対になる「若く美しいお姫様」であり、アナとエルサもやはり二人でひとつの存在です。アナの髪が白くなっていくのは、彼女がエルサと鏡合わせの存在であることを示すと同時に、「年を取ること」を表していると、私は思っています。

 

私の大好きなスペインのアニメーション映画に、『しわ』という「老い」を扱った作品があります。この映画の監督が、インタビューで「年を取る」ことについて、こんなことを言っていました。

「人は老いそのものではなく、(老いてからの)社会の扱いが怖いのです。」

 

『白雪姫』のエヴィル・クイーンが、『塔の上のラプンツェル』のゴーテルが恐れているのは、本当に若さと美しさを失うことそのものなんでしょうか?

彼女たちを「悪役」にしているのは、いったい誰なんでしょうか?

 

エルサとマレフィセントやエヴィル・クイーンを分けた違いは、実は彼女たちの中ではなく、外にあったのかもしれません。――もはや「お姫様」「少女」でなくなった彼女を、「大人の女性」としての彼女を、受け入れ、愛してくれる、人や社会があるかということ。

 

 

オマケ

 

エンドロールでは、ディズニーアイドル出身のデミ・ロヴァートがカバーした主題歌“Let it go”が流れます。TVドラマ「glee/グリー」でレズビアンの役を演じて緩やかに脱・ディズニーアイドルを成功させている彼女を起用したのも、この映画の内容と彼女のキャリアを重ね合わせているからなんじゃないでしょうか。彼女もディズニーのTV映画『プリンセス・プロテクション・プログラム』でお姫様を演じているので、かつての「ディズニーアイドル」であり、かつての「ディズニープリンセス」だった一人なんですよね。

 

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