マイケル・ファスベンダー演じる奇妙奇天烈な被り物男・フランクに萌え萌えするつもりで見に行ったのですが、私にとってはこれ、ジョンの映画でした。
しかも中々にシビアな話で、「フランシス・ハ」とか目じゃないくらいに刺さりまくって瀕死の重傷を負いましたよ。
あらすじ:被り物男とバンドを組むことになりました。
ジョンを演じるドーナル・グリーソンは、「アバウト・タイム」でとってもフツーだけどキュートであったかい好青年を演じていたのが印象的だったのですが、今回はその「普通さ」が嫌な方向にリアルでした。
天才フランクには逆立ちしてもかなわない、平々凡々なジョン。天才に嫉妬する凡人の音楽モノ、というと現代の「アマデウス」っぽくもあるけれど、この現代のサリエリはもっと普通でもっと才能がない。
そもそも、サリエリには作曲の才能はあった。ただ、モーツァルトがズバ抜けた天才だっただけ。
サリエリの不幸は、「モーツァルトがヤバいレベルの天才だということを本当に理解できる才能を持っていた」ことだと思うんです。
けれど、ジョンにはそこまでの才能もない。多少音楽を聞く耳はあるけど、作曲の才能はもう、素人が聴いても一発でわかるくらい皆無。たぶん本人もうすうす気がついているんでしょう。
そしてバンドに入れてもらっても、ジョンには居場所がない。
バンドのメンバーはみんなジョンを軽蔑している。(そしてその気持ちもちょっと分かるから余計つらい。)
嫌われていることにも本人は気がついているはずなのに、気がつかない振りをしている。
「バンドのメンバーにも馴染んできた感じがする」と言ってのけるジョンの姿は痛々しくて見てられない。
ジョンの居場所のなさや自分の才能の無さに対する焦りは次第に自己承認欲求を肥大化させ、とうとう取り替えしのつかないところまできてしまいます。憧れの対象であったはずのフランクも、自己承認欲求を満たすためのコンテンツと化してしまう。フランクに出会う前に14人だったジョンのTwitterのフォロワーは、いつのまにか1万人を超えているし、情報提供を募ればすぐさまリプライが飛んでくる。
この、承認欲求の肥大化とSNSの関係のとこ、ほんとリアル過ぎてTwitter依存の身としてはマジで身投げしたくなりました。いっそ殺せ!!
それでもジョンの偉いところは、そこで満足せずにちゃんと自分の曲作りを続けるところ。少なくとも私は、ここはジョンの持つ美徳だと思ったし、そう思いたい。けれども結局、ジョンが懸命に作った曲はクソだし、そのせいでせっかくのチャンスもフイになってしまう。
承認欲求に突き動かされた凡人の創作が、才能ある人の邪魔をしてしまうとしたら、その創作は悪なんでしょうか。いっそ凡人は生み出すことすら諦めたほうが世の中のためなんでしょうか。
凡人の側に生まれてしまったものには、こんな結論は辛すぎる。
この映画のジョンはpixivのブックマーク数に一喜一憂している私であり、Twitterでタグ絵師と嘲笑されながらも絵を投稿し続けている彼女であり、再生数とマイリス率に取り憑かれながらニコニコ動画にボカロ曲を投稿している彼なのでしょう、たぶん。私は常々、自分に才能がないのは分かっていても何かを作りたいと思っているし、承認欲求を原動力にして何が悪い、たとえクソみたいなものしか作れなくても何も生み出さずに嘲笑する奴よりは遥かにマシだ、と思ってます。でもその創作物が人を踏みつけにしてしまうとしたら?と問われると、二の句が告げないのです。
この映画を見て「ジョンってほんとダサいし痛いよねw」と言っている人がいて、ああこの人とは一生分かり合えないだろうなあ、と心がスッ…と離れてしまうくらいには断絶を感じました。
ラストシーン、画面の奥に向かって歩いていくジョンの背中に私はどうにもやりきれなくて、誰かが彼に声をかけてくれないだろうかと願ったのですが、そのまま映画は終わってしまいました。