ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
映画『マレフィセント』を見てきたので、ざっくりと感想をば。
結論から言うと、『アナと雪の女王』から続く、ディズニーの「過去の負債にきっちり向き合う」という姿勢が見られる好ましい作品でした。時代に合わせてアップデートしながら、おとぎ話が生き残るために必要な「再話」をしていく。というあたりに、ディズニーはまだまだ「おとぎ話」を語るつもりなんだなー、とちょっと嬉しくなりました。
続きからはちょいネタバレありの感想です。
『マレフィセント』については、公開前から「悪役に後付け良い人設定なんていらない!マレ様は絶対悪だから良いのに~!!」という人を良く見かけました。
その気持ち自体は、すごーく良くわかります。連載漫画の途中で、実は悪役には悲しい過去が……みたいな展開くると私もガッカリする。
でも、今回の映画は『アナと雪の女王』同様、良く知られたおとぎ話のカタチを借りてディズニーの過去の負債にカタをつけよう、っていう試みの一環であって、単に「悪役に実は良い人でした設定つけてお涙ちょうだい映画を作りました」っていうことではないよ、ってことだけは主張しておきたい。
ていうかね、意地悪言っちゃうとパークのマレフィセントだってアニメとは全然別物じゃないですか。
本家本元のマレ様は涙声で「ミッキーには勝てないのか~~」なんて言いませんから!そんなの悪の支配者じゃないやい!
……というフラストレーションを抱えていた私からすると、むしろ元のキャラクターが持つイメージを上手く利用しながら全く別のキャラクターとして描いてくれた今回の実写版マレ様のほうが、ぶっちゃけ断然「アリ」です。
そもそも、今回の映画で製作者側が「マレフィセント」というキャラクターを使って何を描こうとしているのかっていったら、「いままでのプリンセス・ストー リーによって抑圧されてきた者たち」であり、マレフィセントが「魔女」と「LGBT」の両方のアイコンとしての側面を持っているキャラクターだからできた ことなんですよ。
はなっから、彼らが描こうとしているのは「絶対悪としてのマレフィセント」ではない。むしろ、今作のマレフィセントは「今まで悪として描かれててきた者たち」の象徴なんです。
「なぜおとぎ話では『魔女』が悪役なのか」ということについては「アナ雪」の時にも書いたので割愛しますが、ここで私が言いたいのは「マレフィセント」というキャラクターが望んで魔女(悪)になったとか否かとかいう話ではなく、
おとぎ話の構造自体に(つまり、そのおとぎ話を生み出している私たちの社会構造自体に)疑問を投げかけてる映画だということです。
そして、なぜこの映画でマレ様がLGBTとしての側面を持つかというと、まずディズニーヴィランがLGBTコミュニティにおいてある種のファッション・アイコンであることがひとつ。
(『リトル・マーメイド』のアースラなんて、逆にディズニー側がドラァグ・クイーンのディヴァインをモデルにしてますし)
マレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーが、バイセクシャルであること。そしてお話の流れやセリフの端々にも、そういった要素が見え隠れします。特に、何度も何度も繰り返されている”Come out!”ってセリフは象徴的かと。
(この点についてはvertigoさんのつぶやきがわかりやすいです)
つまり映画『マレフィセント』は、魔女として扱われてきた女の怒り、虐げられたてきた性的マイノリティの怒りという二重の側面を「マレフィセント」というキャラクターに仮託し、男権社会を断罪しようとしているのです。
実際、この映画ではステファン王が象徴する男権社会はあからさまに(ほとんど製作者側の敵意を感じるほど)「悪」として描かれています。
マレフィセントが翼を奪われるシーンなんて、性暴力の暗喩ですもん。
このシーン、「ディズニーでここまで描くか」と思ってちょっとぎょっとしたのですが、よく考えればもともとの「眠れる森の美女」というおとぎ話自体が、多分に性暴力の要素を含むお話なんですよね。
ただ、この映画はマレフィセントとオーロラの「母娘愛」の物語にも見えるように作ってあって、(オーロラがマレフィセントを『ゴッドマザー』って呼ぶのもそ う)それ自体は別に良いんですが、そうするとこのお話が家父長制VS家母長制のような図式に見えてしまってなんだかモヤモヤするという……
参考:
ディズニーとLGBTコミュニティの関わりについてわかりやすく解説した動画
その気持ち自体は、すごーく良くわかります。連載漫画の途中で、実は悪役には悲しい過去が……みたいな展開くると私もガッカリする。
でも、今回の映画は『アナと雪の女王』同様、良く知られたおとぎ話のカタチを借りてディズニーの過去の負債にカタをつけよう、っていう試みの一環であって、単に「悪役に実は良い人でした設定つけてお涙ちょうだい映画を作りました」っていうことではないよ、ってことだけは主張しておきたい。
ていうかね、意地悪言っちゃうとパークのマレフィセントだってアニメとは全然別物じゃないですか。
本家本元のマレ様は涙声で「ミッキーには勝てないのか~~」なんて言いませんから!そんなの悪の支配者じゃないやい!
……というフラストレーションを抱えていた私からすると、むしろ元のキャラクターが持つイメージを上手く利用しながら全く別のキャラクターとして描いてくれた今回の実写版マレ様のほうが、ぶっちゃけ断然「アリ」です。
そもそも、今回の映画で製作者側が「マレフィセント」というキャラクターを使って何を描こうとしているのかっていったら、「いままでのプリンセス・ストー リーによって抑圧されてきた者たち」であり、マレフィセントが「魔女」と「LGBT」の両方のアイコンとしての側面を持っているキャラクターだからできた ことなんですよ。
はなっから、彼らが描こうとしているのは「絶対悪としてのマレフィセント」ではない。むしろ、今作のマレフィセントは「今まで悪として描かれててきた者たち」の象徴なんです。
「なぜおとぎ話では『魔女』が悪役なのか」ということについては「アナ雪」の時にも書いたので割愛しますが、ここで私が言いたいのは「マレフィセント」というキャラクターが望んで魔女(悪)になったとか否かとかいう話ではなく、
おとぎ話の構造自体に(つまり、そのおとぎ話を生み出している私たちの社会構造自体に)疑問を投げかけてる映画だということです。
そして、なぜこの映画でマレ様がLGBTとしての側面を持つかというと、まずディズニーヴィランがLGBTコミュニティにおいてある種のファッション・アイコンであることがひとつ。
(『リトル・マーメイド』のアースラなんて、逆にディズニー側がドラァグ・クイーンのディヴァインをモデルにしてますし)
マレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーが、バイセクシャルであること。そしてお話の流れやセリフの端々にも、そういった要素が見え隠れします。特に、何度も何度も繰り返されている”Come out!”ってセリフは象徴的かと。
(この点についてはvertigoさんのつぶやきがわかりやすいです)
come outとかlet it be normalって言葉とかdragな翼があったのよとか王様が城から出ないとか全部わかるように作ってある映画だと思ったんだけどやっぱ案外伝わってない気がしてならん…
— vertigo (@vertigonote) 2014, 7月 6
つまり映画『マレフィセント』は、魔女として扱われてきた女の怒り、虐げられたてきた性的マイノリティの怒りという二重の側面を「マレフィセント」というキャラクターに仮託し、男権社会を断罪しようとしているのです。
実際、この映画ではステファン王が象徴する男権社会はあからさまに(ほとんど製作者側の敵意を感じるほど)「悪」として描かれています。
マレフィセントが翼を奪われるシーンなんて、性暴力の暗喩ですもん。
このシーン、「ディズニーでここまで描くか」と思ってちょっとぎょっとしたのですが、よく考えればもともとの「眠れる森の美女」というおとぎ話自体が、多分に性暴力の要素を含むお話なんですよね。
ただ、この映画はマレフィセントとオーロラの「母娘愛」の物語にも見えるように作ってあって、(オーロラがマレフィセントを『ゴッドマザー』って呼ぶのもそ う)それ自体は別に良いんですが、そうするとこのお話が家父長制VS家母長制のような図式に見えてしまってなんだかモヤモヤするという……
参考:
ディズニーとLGBTコミュニティの関わりについてわかりやすく解説した動画
PR
この記事にコメントする
プロフィール
HN:
らいと
性別:
非公開
最新記事
(07/31)
(12/14)
(11/27)
(07/30)
(06/18)
P R