Red Notebook 『ソウルフル・ワールド』死すべき定めの凡俗こと私たち 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2024年11月23日 (Sat)
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2021年01月03日 (Sun)



あけましておめでとうございます。

今年の映画初めはピクサーの新作『ソウルフル・ワールド』でした。
劇場での公開予定から一転、ディズニープラスでの配信限定となった本作、やっぱりこれ劇場で見たかったな……。

以下ネタバレありの感想です。



本作の主人公・ジョーは、ジャズピアニストとして活動することを夢見る音楽教師。
有名なサクソフォン奏者であるドロシア・ウィリアムズのカルテットで演奏するチャンスを掴んだ直後、不注意による事故で死んでしまいます。
生き返って地球に戻るため、彼は生まれる前の魂である「22番」のメンターとなり、22番が「生まれる」ための「きらめき」を見つける手伝いをすることになる……というのがあらすじ。

ジョーの今までの人生を見た22番は音楽での活動がなかなか報われなかった場面だけを見て、ジョーの人生を「惨め」と言い、ジョー自身もドロシア・ウィリアムズのカルテットで演奏することが決まってはじめて「ここから人生が始まる」と息巻きます。
じゃあ、ジョーの今までの人生って惨めで意味がなかったのか? 幸運にもドロシア・ウィリアムズのカルテットで演奏できることにならず、認められないままだったら、ジョーの人生って何だったのか?
紆余曲折のうえ、結果的にジョーはドロシア・ウィリアムズのカルテットで演奏することができますが、たとえそれがなかったとしても、自分の平凡な人生のありふれたひとコマに、たしかに幸せがあったということに気がつきます。
むしろ、「夢」に固執しすぎると、平凡な日常生活に「きらめき」が満ちていたことすら気がつけなくなってしまう。
ようやく掴んだはずの「人生の意味」だって、一度手に入れたら「明日またここに来て、同じことをする」日常生活になる。
床屋のデズの話のように、人生で思い描いた夢が叶わなくても、別の目的を見出すことはできる。
吹替で見たので推測なのですが、原語では「生活」と「人生」がどちらもlifeであるということが重要になっているのかな。

リンカーンやマザー・テレサやモハメド・アリのように歴史に名を残す人たちと違い、凡俗の我々は死ねば忘れ去られ、二度目の意味でも死んでいくわけです。
それでも、偉大なことをなしとげられなくても、平凡な人生には価値がある。
人生はままならないけど、それでもそれぞれの人生には美しさがある。
……というのが本作のテーマになっています。

ただ、いくら『アマデウス』のサリエリが「私は凡人の味方、凡人の神」と言ってくれても、「いや、ゆうてあなたは成功した音楽家で、『モーツァルトの才能を見抜く才能』がありましたよね〜???」とやっかんでしまうくらいこじらせている者にとっては、「まあまあ、たとえ夢が叶わなくって思い通りの人生にならなくてもさあ〜〜平凡な人生ってそれだけで価値があるよね」って超一流アーティスト集団ピクサーくんから言われても「うん……?? まあそうかな……???」と若干腑に落ちないところがなくはない。
ジョーも今まで認められていなかっただけで、別に音楽の才能がないわけではないし……

……という若干のモヤりはありつつも、ピクサー、とくにピート・ドクターは「夢が叶わないこととどう折り合いをつけるか」を描くのがやっぱりめちゃくちゃ上手くて、本作はその集大成だという気がします。

たとえば『カールじいさんの空飛ぶ家』は、怒涛のオープニングがすでに「かつて見た夢は叶わなかったけれど、平凡な生活の中に幸せがあった」という話だし(そして夢は人知れず報われていたりする)、ピート・ドクター監督作ではなく製作総指揮ですが、『モンスターズ・ユニバーシティ』も、「たとえ夢が叶わなかったとしても、君の努力はムダじゃない。他に向いていることが見つかるかもしれないし、意外なところから憧れの職業につながるかも」という話なんですよね。

私はディズニーの短編アニメの「紙ひこうき」や「インナー・ワーキング」のような「単調で地味でつまらない事務職が人生を味気ないものにする」みたいな世界観がすごく嫌で、自分が現役事務職であることもあって「世界トップレベルのアーティスト様たちからはそう見えるんでしょうな〜〜ハイハイ」といじけてしまいがちです。
『ミスター・インクレディブル』での保険屋の仕事の扱いもこれに近いかな。

そういった作品群に比べると、ジョーは教師の仕事に魅力を感じていないけれど、人を教え導くことについてはちゃんと成果を出しているということが描かれていたのは良かったですね。
「先生の授業だけが楽しみで学校に行ってました」と言うカーリーはドロシア・ウィリアムズのカルテットに入るまでになり、コニーもトロンボーンのレッスンを続けていて、楽器の演奏が好きだと思えている。
なにより、結果的にジョーは、22番の「メンター」としての役割をちゃんと果たしている。
ジョーが教師としてちゃんとやれていて、それにはすごく意味があるということを、もう少しハッキリ描いてくれても良かったのにな〜と思います。
最初の方の「教師なんて仕事つまらん……アーティストになりたい……」という展開、現役教師の母親と一緒に見ていたので緊張感がすごかったよ……

映像的にはニューヨークの騒がしくて魅力的な街並みが美しく、どのショットも絵になりそうなほど洗練されています。
ピクサーの予算度外視なのか?というレベルの超絶こだわり(『インクレディブル・ファミリー』でボブのポロシャツの毛羽立ちまで表現しているみたいなやつ)、正直「なぜそこまで……」と引いてしまう部分もあるのですが、今作に関してはここまでの圧倒的なビジュアルがあったからこそ、「平凡な人生は美しい」という物語に説得力が与えられています。

そして、3DCGが実写と見まごうほど完成度が恐ろしく高いからこそ、平面的で線で構成されたキャラクターであるテリー&ジェリーの動きが映えて面白い。
変幻自在なテリー&ジェリーの動きは、まさに2D時代からのアニメーションの醍醐味で、アニメーターめちゃくちゃ楽しかったでしょうね。
『インサイド・ヘッド』よりもさらに抽象化された「概念」のキャラクター化としてのテリー&ジェリーや「あの世」の概念、シンプルでありながら恐ろしさを感じさせる加減が絶妙ですね……
(ちなみに映画批評サイトなどで指摘されているところによれば、あのベルトコンベアーのようなもので死者が運ばれていくビジュアルは、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガーの「天国への階段」(1946)のオマージュだそうです。へー。)
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