Red Notebook 実写版『美女と野獣』ディズニー流現代的アップデートはどこまで有用か 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2017年04月24日 (Mon)


実写版「美女と野獣」見てきました。(字幕、IMAX)吹替も評判良いので見たら感想追加するやも。
以下ネタバレありの感想です。
なお全体としては、「映画として悪くはないし見ていて楽しいけれど、アニメ版からの改変要素はあまり上手くいっていると思えない」というスタンスです。

アニメ版があまりにも好きすぎて言いたいことがたくさんあるのですが、主にアニメ版からの改変要素について書いてます。
なお今作についてはストーリー展開はほぼアニメ版をなぞり、アニメ版の演出をほぼ丸コピしている部分もあるなど、作り手側が「アニメ版で育った人たちに対し、ノスタルジアを想起させる」のを意図的にやってるので、アニメ版と比較せずに見るのはほぼ不可能であると思います。
ここがこの映画のやっかいなところで、良いなあと思う場面でも「アニメ版を思い出してノスタルジアから感動するのか、この映画が素晴らしくて感動するのか」が見てる間はだいぶ曖昧になってしまうんですよね。

○キャラクター造形
モーリスとル・フゥのキャラクター造形はとても良かったと思います。特にモーリス役のケヴィン・クラインは本作のMVPと言っても過言ではないかと。少しエキセントリックだけれど愛情深い父親像をチャーミングに演じていたと思います。ル・フゥはアニメ版だとコミックリリーフ、今作ではガストンにぞっこんで彼に尽くしているにも関わらず、ガストンからは利用された挙句捨てられてしまう、というめちゃくちゃ可哀相な役どころなんですが、ジョシュ・ギャッドの演技はおかしみと切なさのバランスが絶妙でした。「アナと雪の女王」のオラフもそうですが、ジョシュ・ギャッドはギャグをやるときにコミックリリーフがしばしば陥りがちな「騒々しく叫ぶ」というキャラクターにならないところが品があってしかも面白いので、上手いなあと思います。

○ミュージカルとしての歌について
ベルを演じるエマ・ワトソンの歌唱力はかなり不安な部分もあるのですが、全体的に見ればまあセーフ…かな。ただ、新曲「Days in The Sun」で、今回のキャスト陣の中で1人ズバぬけて圧倒的に歌が上手い、オードラ・マクドナルド(マダム・ド・ガルドローブ=箪笥夫人)の次のラインをエマ・ワトソンに歌わせるとか、あまりに可哀相でしょう!!もっと考えてあげて!!!
あと、フィナーレの「美女と野獣」は途中でエマ・トンプソンにスイッチせず、最後までオードラ・マクドナルドがメインで歌わせてあげれば良かったと思います。正直一番歌が上手い人の歌唱を少ししか聞かせてもらえないのは、見てる方もフラストレーションたまります。


○ベルのバックストーリーについて
メインテーマ曲である「美女と野獣」にはLearning you were wrongというフレーズもあり、「間違いを学ぶ」というのが物語の骨格になっているのですが、アニメ版も実写版も共通して、ディズニー版の物語において「間違い」を学ぶのは野獣になっています。ここが元の童話との大きな違いで、原作では「外面よりも内面の美しさを見ること」を学ぶのは美女の方なんですね。(※「美女と野獣」の原作と呼べるものは何種類かあると思いますが、ここでは便宜上、もっともポピュラーであるボーモン夫人版を原作と呼んでいます。)野獣は最初から紳士で、美女はその内面の美しさを見ることができていなかったというわけ。
ディズニー版ではベルは野獣の醜さではなく暴力性を恐れてたわけで、しかも事実野獣ははじめは粗野だったので、別に「間違い」ではありません。
ベルは初めから父親のために我が身を犠牲にするほど優しい心の持ち主で、知的好奇心旺盛、見た目は美しくとも内面は問題アリなガストンを注意深く阻むこともできる(人を外面で判断しない)わけで、ぶっちゃけほぼ完璧超人、彼女が本編の経験を通じて成長する余地はほとんど無いんですよね。

で、「ベルにも成長してもらわなきゃならん」と制作側が思ったのかどうか知りませんが、今回付け足されていたベルのバックストーリー。
彼女は父から「母は死んだ」と聞かされていたが、実は疫病にかかった母を置いて、父モーリスが幼いベルを連れてパリから田舎に逃げてきたというもの。
このベルのバックストーリーは、今作の追加要素の中でも最も必要性が分からなかった部分です。「ベルの母が教養あふれる女性なら、なぜこんな片田舎に住んでいたのか」という理由づけをしたいのなら、わざわざもったいつけておいて物語の中盤で明かす意味が分からないです。ベルの母が教養あふれる女性だったっていうのも実写版独自の設定だし。
一番問題なのは、このバックストーリーの追加が物語の筋やテーマに対して全く機能してないこと。この過去を知ったことにより、「愛とは(自分の母のように)誰かのために自分を犠牲にすること」だとベルか学んだとして、その後彼女は野獣のために何かを犠牲にしようとしたんでしょうか?
まさか「民衆を止めるために危険を顧みず城に戻ったこと」がそれだとでも言うんでしょうか。
せめて野獣に手を出さないことを条件にガストンとの結婚を了承する(もしくは、そのふりをする)くらいにしとかないと意味なく無い?
しかも、「行きたいところにどこにでも行ける本」という新ガジェットを投入したおかげで(なんとこの本はその後のストーリー展開に全く関わってこない!)、「父親の窮地を知ったベルはドレスのまま馬に乗るほど急いでいるのに、超便利グッズである本を使わない」というプロットの穴まで生み出しています。なぜならこのベルのバックストーリーを知るシーンは完全に元のストーリーに取って付けただけだから。
このバックストーリーはベルのキャラクターを深めもしないし、変質もさせないし、全くの無です。虚無。

○物語のテーマは何だったのか?
さらに、ベルのバックストーリーが意味不明だったことで、アニメ版から存在する、そもそもこの話が訴えたいのは「外面で人を判断してはいけない」なのか、「愛とは自分よりも他人を優先させること」なのか?というテーマの曖昧さがより浮き彫りになっている気がします。
まず、「外面で人を判断しない」がメインテーマでこれを野獣が学ぶことにするなら、恋の相手を「見た目が美しく、性格も優れているベル」にする意味が無い。はじめはベルの美しさだけを見て恋をした野獣が、徐々に彼女の内面に惹かれていくという展開ならまだ納得がいくのですが、会ったばかりの野獣はベルを美人だとは認識していただろうけれど、その美しさに心惹かれてたという描写もない。野獣がベルに惹かれ始めたのは、あくまで彼女の優しさに触れてから。外面で判断しないことを学び成長する要素がベルの側に無いことも前述のとおり。
次に、「愛を学ぶこと=愛とは自分よりも他人を優先させること」がメインテーマと考える場合。
そもそも魔女は「外面で人を判断してはいけない」と忠告したのに、「外面で人を判断しなくなること」でなく「誰かと相思相愛になること」が呪いの解除の条件なのおかしくね?というのには目を瞑るとして。
アニメ版では「愛することを知らなかった野獣が愛を学ぶことができた」というのをものすごくエモーショナルに描き出します。
これはアニメ版では2人が踊ったあと、とても良い雰囲気になり、野獣の側に「彼女も自分を愛してくれるかもしれない、人間に戻れるかもしれない」という希望が生まれた直後にあるシーンなんです。魔法の鏡でモーリスの様子を見て、「父が大変だわ!」と叫ぶベル。野獣は彼女を見て、一瞬葛藤する。このままベルをつなぎとめておけば、いつかベルは自分に恋をしてくれるかもしれない。そうすれば、自分は人間に戻れる。けれど彼はその自分の「望み」よりも、ベルの「望み」を優先する。何故ならベルを愛しているから。この一瞬の内面の葛藤をグレン・キーンの素晴らしい作画が見事に表現してていて、だからこそ我々は野獣が愛を学んだことに感動するわけです。
ところが実写版のこのシーンの演出は、「父が大変だわ!」ってベルが言ったあと、野獣はマジ  秒  で  「じゃあ彼の元へ行きなさい」って即答するからね。表情の変化も無く。
だから観客のこのシーンへのカタルシスも薄い。直後にベルを行かせた心情を歌う新曲、「Evermore」があるから…というのはまあ分からなくも無いんですが、それにしたって演出雑だな!?としか。
なので、「愛すること」をメインテーマとしているにしてはなんかこの辺りの演出が軽すぎるんですよね。
前述のようにベルの側のバックストーリーがこの要素を推したものだと仮定しても、その後のストーリーにまったく活きていないので意味がわかりません。
ほんと、ベルのバックストーリーに関しては追加した意味が不明すぎるので誰か分かる方いたら解説してください。

○野獣のバックストーリーについて
ベルのバックストーリーに比べれば、野獣のバックストーリーは意図が分かる改変だったと思います。
今作の野獣は早くに母親を亡くし、父親が冷酷だったため性格が歪んでしまったという設定。
「親の呪いの克服」は「ラプンツェル」以降実写版「シンデレラ」などでも見られる最近のディズニーのお気に入りのテーマなのでまあそれは良いんですが、イマイチ「父親の呪い」がどんなものだったのかよく分からないので、「ロマンスなんて女子供が読むものだ、くだらない」と父から言われていたためコソコソ隠れてロマンスを読んでいた野獣が、ベルに「ロマンス物語はくだらなくなんかない」って言われて今まで持ってたマッチョな価値観から抜け出せるとか、そういう"もうひと押し"があっても良かったかなー、と思います。
ベルが発明家という序盤でしか活かされない追加設定も、ベルが発明の才で城の何かをリメイクするとか、発明品で掃除してしまうとかあれば、「父親の支配/呪いの象徴であった城をベルが塗り替えていく」のを画的に表現できて良かったと思うんですけど。
それから、アニメ版の野獣は文字が読めない設定でしたが(カットされたシーンで、ベルが野獣に本の読み方を教えるシーンがある)今作では野獣が教養があり読書もする設定となっていたために、ベルと野獣の間につながりが生まれる設定にしたのは良い改変だなと思いました。暴力性を手なづけ洗練させることと教養をつけさせることを重ねる価値観も、今やるにはちょっと古いかんじだし。

○顔の見える"魔女"と魔女の意味の変革
「マレフィセント」のマレフィセントや「アナと雪の女王」のエルサに顕著なとおり、「魔女」の意味の変革も近年のディズニーのテーマのひとつであるようです。
「美女と野獣」の魔女はwitchではなくenchantressなので初めから悪として設定されているわけではないのですが、今作はコミュニティで疎外されてたり、知恵のある女性が魔女と呼ばれていたんだよーと言いたいのだろうし、その心意気は買いたいですね。(その意味では、ベルはコミュニティから浮いていてかつ知恵がある女性なので、非常に魔女に近い存在であることをも示唆していたのではないかと思います。ガストンがベルに「君もアガットのようになってしまうぞ」と言う台詞に端的に表れています。)
あと、最近「野獣から美女へ  おとぎ話と語り手の文化史」を読んでいるので、アガットが寡婦というのも「おとぎ話」の成り立ちを示唆しているのではないかなと考えたりしてました。
物語をつむぐ老婆たちはたいていいつもひとり身で、いきおくれた独身女性や寡婦として表象される。ガチョウおばさんは逸脱した老婆として登場する。夫にともなわれないまま父権制の暖炉というよりどころから切りはなされた女性であり、魔女やとりもち婆さんの親戚である。
「野獣から美女へ  おとぎ話と語り手の文化史」p.194
ただまあ、意図は分かるんですけど、「なぜ魔女は王子には罰を与えるくせに、同じ村にいながらガストンは放置なのか」みたいな新たな疑問が生まれてしまったりもするので、正直これも難しいところですね。魔女の顔が見えてしまうがゆえに、「裁く者」としての魔女の恣意性が気になってしまうというか。
あとあんまり関係ないんですが、この物語において魔法を行うのは魔女であるアガットもしくは彼女が残した魔法の道具だけのはずなのに、箪笥夫人が「ドレスに仕上げが必要ね♡」とか言って部屋の飾りを魔法で(魔法とは呼ばないにしてもとにかく人智を超えた何らかの力で)ドレスに縫い付けるシーンがよく分からない。魔法で家具に変えられた召使いたちも魔法が使えるなんてわけではなさそうだし、魔法の捉え方雑すぎでは。このシーンのおかげで「えっ…夫人からバッサー!と色とりどりの布が出てきて着替えさせるのもアニメ的なコミカル表現でなくて魔法の力で着替えさせてんの…?」と悩んでしまいました。

○コミュニティへの帰還
「モアナと伝説の海」の感想でも書きましたが、近年のディズニーのトレンドは「自分の居場所を求めて外の世界へ出ていく」よりも、「元いたコミュニティを変革すること」になっています。
今作でも野獣の城は他のコミュニティから離れた孤立した場所ではなく、城の人々と村の人々は地続きであったことが明かされます。かくして、野獣やベルもコミュニティの一員となることでハッピーエンド。かなり取って付けた感はありますが、まあこれはこれで…。
ただ、「村人は本当にガストンを崇めていたわけではなく、ル・フゥが金を渡してガストンをおだてていた」というのは「村人はそこまで悪くないから…」的エクスキューズにしか思えません。ガストンを崇めていようがなかろうが、彼らが恐怖を煽るデマゴーグに扇動されて異質なるものを殺そうとしたのは変わらないじゃないですか。
「村人たちは魔法で城のことを忘れてたけど、呪いが解けて記憶が戻ったから城のみんなとまた仲良くできるよ!」もエクスキューズっぽくて微妙なんですよね。じゃあ野獣が異質として排除されそうになったのは人間の心に巣食う異質への嫌悪のせいじゃなくて魔法のせいかよ。
この辺も「近年のディズニーの現代的アップデートのトレンド」を表面的になぞっているだけに感じられてあんま好きじゃないんですよね…。
ガストン1人に罪を被せて村人たちについては不問、というのは「ポカホンタス」における「悪いのはラトクリフ総督1人だから彼をとっちめれば英国人とネイティブアメリカンは分かり合えるよ♡これで植民地主義も解決だネ♡」的ヤヴァさを感じます。

参考文献:
マリーナ・ウォーナー『野獣から美女へ おとぎ話と語り手の文化史』河出書房新社、2004。
ボーモン夫人『美女と野獣』KADOKAWA、2014。

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