ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
そろそろ2017年も終わりですね。この年、みなさまどのような沼に入沼されたのでしょうか。
私はといえば5月に中日劇場で見たミュージカル「グレート・ギャツビー」でニック・キャラウェイを演じていた田代万里生さんに心を奪われてしまい、ミュージカル沼の浅瀬で「大丈夫まだ足つく……まだ足つくから大丈夫……」というチキンゲームをちゃぷちゃぷやっており、どの段階で足をとられて溺れるのかが戦々恐々としております。
さて、私は普段洋画沼の民なのですが、ミュージカル沼ってすごい大変ですね…!何が辛いって遠征費含む出費もですが、たいていの場合過去の舞台の映像が残っていないのでハマった俳優さんの過去作を漁れないのが辛い。
何が言いたいかというと、田代万里生さんの過去出演作である「スリル・ミー」が見たくて見たくてたまらないのに円盤が出ていなくて辛いという話です。
……などとブログの下書きに書いていたところ、なんと「スリル・ミー」の再演が発表されました!!!2018年12月だそうです。絶対に観に行く。でも、田代万里生さんは出演されないので、やっぱり私が田代さんの「スリル・ミー」を見ることはもう無いのでしょうね。つらい。
そんなわけで、日々ライブ盤CD、公式がYouTubeにあげている宣伝動画、ファンの方々の当時の観劇レポ、オークションで買ったプログラムなどを頼りに「スリル・ミー」の全貌を想像しています。この遊びができるのもあと1年か〜
ライブ盤CDは伊礼彼方×田代万里生版しか聞いていないので他のペアはもっと違う印象なのかもしれないのですが、この2人の「己の持てる全てをもって歌唱力でぶん殴りあってる」感じが最高に好きです。2人がぶつかり続けることのきらめきというか……。かつて石原郁子先生が映画「ガタカ」を評して「(前略)奇妙な共犯関係。それはこの上なく甘い戦きに満ちた官能的な絆だ」「宝石が研磨されてその輝きを顕わすように、互いに傷つけあうその痛みから、ほとんど<愛>と呼べる美しい瞬間が研ぎだされる」とおっしゃいましたが、まじでこれなんだよ「スリル・ミー」のふたりは…!!!(※この人舞台見てません)
ところで、「スリル・ミー」の全貌を妄想しながら、これってラドヤード・キプリングの「王になろうとした男」っぽさがあるなあと思っています。
☆「スリル・ミー」のあらすじ☆
刑務所の仮釈放審議会で、囚人である"私"は、37年前の殺人事件と、事件の共犯者であった"彼"について回想する。同じ大学に通っていた"彼"と"私"。頭が良く周囲を見下している"彼"は、しばしばスリルを味わうために犯罪行為を行い、"私"に片棒を担がせていた。犯罪行為には気がすすまないものの"彼"に夢中になっている"私"は、"彼"に提案された「お互いの要求を満たす」という契約を結ぶ。"彼"の欲求は次第にエスカレートし、ついに2人は殺人を計画するが……
※「スリル・ミー」は1924年にシカゴ郊外で実際に起きた殺人事件、「レオポルドとローブ事件」を下敷きにしています。
☆「王になろうとした男」のあらすじ☆
19世紀、イギリス統治下のインド。あるイギリス人新聞記者のもとに、2人の英国人が訪れる。ともにフリーメイソンの会員である英国人のドラヴォット、カーナハンの2人は「アフガンを抜け秘境カフィリスタンへゆき、優れた軍事知識でもって現地人の信頼を得てゆくゆくは王になる」という計画を立てていた。2人は新聞記者を証人とし、「王になるまでは酒も女も断つ」という契約を結んだのだった。2人は新聞記者から得た情報を使ってカフィリスタンゆきへ成功し、ドラヴォットは神の子として崇められる。2人の野望は成功しかけたかに思えたが……
↑映画「王になろうとした男」より、カーナハン(マイケル・ケイン)とドラボット(ショーン・コネリー)が互いの煙草に火をつけるシーン。やおい度が高い。
以下、「スリル・ミー」と「王になろうとした男」って実は近い話なのでは…?という話をするのですが、私は「『アナと雪の女王』と『SHAME/シェイム』は実質同じ話」とか言い出す人なので、あまり真面目に聞かないでくださいね。
そして私は実際の「スリル・ミー」の舞台を見ていないので、様々な情報の断片から私の脳内で形成された「ぼくのかんがえたさいきょうのスリルミー」の話をしているよ。
「スリル・ミー」と「王になろうとした男」が共通しているなあと思う点は大きく2つあって、
①男2人の契約が結婚として描かれている
②男たちは自分たちが他者に優越する存在であることを証明しようとして身を滅ぼす
です。
です。
①については「スリル・ミー」の方がわかりやすいですね。
"私"と"彼"が契約を交わす「契約書(A Written Contract)」のナンバーでは
よく聞け/これから2人は正式に結ばれる/対等な立場で 永遠に/覚悟を決めて契約書を作ってサイン!
2人はこれで完全な絆で/繋がれ結ばれた
正しく法律に従った正式な契約だ/たとえタイプの文字が掠れても/2人を決して離さない/永遠に
など「契約」によって2人が「結ばれる」ことが強調されており、執拗にこの契約が彼らにとって結婚の暗喩であることが示されています。
対して「王になろうとした男」は「スリル・ミー」ほど露骨ではありませんが、ドラヴォットとカーナハンの契約を男同士の結婚とする読みもあります。
このテクストに男たちのホモエロティックな関係を感じとっている評者は多い。たとえばある論者は次のように言う。ドラヴォットが「兄弟」と「わたし」に呼びかける部分をテクストはイタリックで強調している。それは実はメーソン仲間としての呼びかけであるわけで、大部分の者には理解不能な隠された意味を帯びている。だから、男たちのそのやりとりに、読者は「なにかが隠されているという感じを覚えるだろう」(Scherick 120-21)。カーナハンとドラヴォットが交わす約束ーー王国を建設するまでは互いに協力し、酒と女を断つという契約ーーを、ショーウォルターが「男同士の結婚の契約」と呼ぶとき(94)、彼女が暗示するのもふたりの男のホモエロティックな関係だ。(角田 123)
また、「スリル・ミー」の ”私”は"彼"に心酔していますが、「王になろうとした男」のカーナハンもまた、ドラヴォットに心酔している様子が伺えます。
だんな、だんなはドラヴォットを知ってる!すばらしい崇拝すべき兄弟のドラヴォットを知ってるはずだ!さあ、やつを見てやってくれ!(キプリング 603)
ちなみに角田信恵氏の評論「首をめぐる輪舞「王になろうとした男」とホモエロティックな欲望」では「王国の半分」「首」「舞い」という要素から「王になろうとした男」を「サロメ」に絡めて論じているのですが、「スリル・ミー」もオスカー・ワイルドの「サロメ」みたいなとこありますよね。"私"が「99年(Life Plus Ninty-Nine Years)」のナンバーで「勝ったのは僕だ」「いつまでも(君は)僕のものだ」と歌うのは、サロメの囁く「おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン」と同義だし。同義だし!!なぜならこれは自分を愛さない男への勝利宣言だから!!(目グルグル)
そして②ですが、「スリル・ミー」の"私"と"彼"は非常に優秀な頭脳の持ち主であり、2人とも周囲の人間を見下しています。(「私」は「彼」ほど犯罪を犯すことに積極的ではありませんが、周囲の人間を見下しているのは「彼」より露骨かもしれません。)2人は自分たちがニーチェのいうところの「超人」であり、完全犯罪を犯すことができると証明しようとして殺人を犯します。
「王になろうとした男」では、ドラヴォットとカーナハンはカフィリスタンの民を侮り、彼らを支配しようと企てます。
戦いのあるところじゃ、兵隊を訓練するやり方を知ってる者が王の座につく。だからおれたちはそこへ行って、王ならだれでもいいから見つけて、こうもちかけるんだ。『敵をやっつけたくありませんか?』ってね。で、兵隊を訓練する方法を教えてやる。おれたちがいちばん得意とすることだ。それからその王をやっつけちまって、王座をいただいて、おれたちの国をおっ建てようって寸法さ(キプリング 552)
この「現地人を劣った存在と見なし支配しようとした男が痛い目にあう」という点はH.G.ウェルズの短編「盲人の国」にちょっと似てるかも。
なにより「スリル・ミー」と「王になろうとした男」はどちらも究極の「男ふたり」ものなんですよね。カリスマ性のある男とその男に心酔する男、ふたりで世界を膝まづかせようとした男たちの破滅。破滅によってこそ浮かび上がる、愛に似た何か。
本日のまとめ:スリル・ミーは「王になろうとした男」であり「サロメ」であり「ガタカ」。
はーーもう田代万里生さんが「スリル・ミー」の再演に出てくれないなら、いっそ「王になろうとした男」をミュージカル化して田代さんにカーナハン役やってもらおう!!!!!ウワアアアアアン!!!!
だって田代さんて「グレート・ギャツビー」のニックといい「スリル・ミー」の"私"といい、カリスマ性のある男を愛する男の役が似合うんだもの。
引用文献とか参考文献とか:
キプリング、ラドヤード「王になろうとした男」金原瑞人・三辺律子共訳『諸国物語』ポプラ社、2008年。
ワイルド、オスカー『サロメ』福田恒存訳、岩波書店、2000年。
石原郁子『映画をとおして異国へ ヨーロッパ/アメリカ編』芳賀書店、2000年。
角田信恵「首をめぐる輪舞「王になろうとした男」とホモエロティックな欲望」『キプリング 大英帝国の肖像』彩流社、2005年。
「首をめぐる輪舞」引用内の引用文献は以下
角田信恵「首をめぐる輪舞「王になろうとした男」とホモエロティックな欲望」『キプリング 大英帝国の肖像』彩流社、2005年。
「首をめぐる輪舞」引用内の引用文献は以下
Scherick, William J. "Ethnical Romance: Kipling's "The Man Who Would Be King.""Transformig Genres: New Approaches to British Fiction of the 1890s. Ed.Nikki Lee Manos and Meri-Jane Rochelson, London: Macmillan, 1994.
Schowalter, Elaine. Sexual Anarchy: Gender and Culture at the Fin de Siecle. New York and London: Penguin, 1991.
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