Red Notebook 「モアナと伝説の海」プリンセスよ、星を追い求め、民衆を導け。 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2024年04月26日 (Fri)
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2017年03月10日 (Fri)

「モアナと伝説の海」見てきましたよー!本国公開から遅れること4ヶ月、長かった、長かったよ……。とりあえず初回の今日は、ドルビーアトモス上映の字幕で。二回目は吹替で行けるといいな。

以下ネタバレありの感想です。

☆ディズニーの第二黄金期セルフリメイク

第二黄金期に活躍したロン・クレメンツ&ジョン・マスカー監督作品だけあって、「モアナと伝説の海」はディズニーの第二黄金期ヒロインの要素を色濃く受け継いでいる…というか、ほとんどディズニーによる第二黄金期のセルフ・パロディのようです。

ヒロインのモアナはアリエルやベルのように「外の世界」「海を超えた、ここではないどこか」に憧れているし、(もっとも、「ここではないどこか」に憧れているのは第二黄金期のヒロインに限りませんが)「求められるような完璧な娘になりたいけれど、本当になりたいと願っている自分は別」であるところなんかは、ムーランに通じるところがあります。彼女の相棒マウイは「アラジン」のジーニーのように変幻自在、「トレジャー・プラネット」のジョン・シルバーのように大胆で不遜、そしてモアナを成長させる存在でもあります。
(え?「トレジャー・プラネット」は第二黄金期に入らないって?だまらっしゃい。)

なので、話の構造だけ見ると「よくあるディズニープリンセスのミュージカルアニメ映画だったね」という印象にも落ち着いてしまいそうなのですが……。
ケネス・ブラナーの実写版「シンデレラ」が「みんながよく知っているシンデレラの昔話」を丁寧に繊細に補強し、磨きあげ、アップデートしたように、モアナもまた「みんながよく知っている第二黄金期のディズニー」というイメージ自体を丁寧にアップデートしています。

How Far I'll Goの中で、「外へ出たら、もう戻ってきたくなくなるかも(One day I'll know, if I go there's just no telling how far I'll go)」とモアナは危惧します。けれど故郷を離れ海を旅した彼女は、戻ってくる。
モアナは故郷へ戻り、外へ出たことのなかった民衆を率いて海へと旅立ちます。彼女は自分の住む場所の人々の心を動かしてしまうのです。

このへんのスピリットが、まさに第二次黄金期と第三次黄金期(の中でも近年の作品)の違いではないでしょうか。
「ここではないどこか」に憧れた第二次黄金期のプリンセスは、もといた場所を離れていく。ベルはあの村に戻って住むことはなかったろうし、アリエルは海の世界に別れを告げました。第三黄金期のヒロインでも、たとえばラプンツェルだって、塔に戻ることは選ばなかったでしょう。
けれども「アナと雪の女王」のエルサは一度は捨てた王国で暮らすことを選び、父親から受け継いだ城を自分の力で塗り替えるし、「ズートピア」は自分たちが社会を変えていくことの重要性を訴える。
監督たちがモアナがカカモラたちに追いかけられるアクション・シーンは「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に影響を受けていると語っていましたが、この「自分たちのいる場所を、人々を変える」という要素もMMFRっぽいことを考えると、ディズニーに限らずアメリカのエンタメの方向性なのかもしれません。
緑の地はもうない、シタデルを緑の地にするんだよ!!!!

☆プリンセスとしてのモアナ

モアナはプリンセスです。
劇中、マウイから「ドレスを着て動物のお供を連れてりゃプリンセスさ」とメタ的に揶揄されるように、彼女は「ディズニープリンセス」の伝統に連なる存在として設定されています。
ディズニープリンセスが映し出す女性像は、時代に合わせて様々に変化してきました。しばしば旧弊で抑圧的な女性像として過去のディズニープリンセスが槍玉に挙げられますが、彼女たちも時代によって少しづつ、少しづつ新たな女性像として変化してきたのです。シンデレラは意地悪な継母に対して自分の権利を主張しますし、アリエルは自分の力で王子を助け、ムーランは自ら悪役と戦います。(なぜムーランが「プリンセス」のくくりに入っているかって?こっちが知りたいのでディズニープリンセスのマーケティング部門に聞いてください。)

アニメ映画の中以外でも、ディズニーは「プリンセス」の意味を拡張しようとします。たとえば、「私はプリンセス」というCM。プリンセスとはやさしくすること、挑戦すること、立ち上がること、…とされています。

他にも、「Dream Big Princess」のCMではプリンセスは夢を抱く存在であると定義されています。

そして、ディズニーが発表した現代のプリンセス10ヶ条
他者を思いやる、健康に生きる、見た目で判断しない、正直になる、信頼できる友達になる、自分を信じる、不正を正す、ベストを尽くす、誠実になる、絶対に諦めない。などなど。
なぜこれが「プリンセス」の定義なの?と思われるかもしれませんが、ディズニーにとって(そしてもしかしたら、もっと広い西洋社会において)、「プリンセス」とは「女の子のロールモデル」の言い換えなのです。

ディズニーは「プリンセスはロールモデルである」と喧伝するわりに、「なぜロールモデルがプリンセスという称号でくくられなければならないのか、プリンセスであるという意味はあるのか」という問いには答えてくれません。出自で考えればムーランは間違ってもプリンセスではないし、他のプリンセスについても「王族の女性」であることが彼女たちのアイデンティティにおいて重要とは言い難い中で、プリンセスという肩書きになぜそこまでこだわるのか。マーチャンダイズのためだろ、と言われればそれまでですが。

ディズニーがどんなに「プリンセス」の意味を拡張しようと、「プリンセス」という言葉がどうひっくり返っても「王族の女性」という意味からは逃れられない以上、これは欺瞞に思えて私は不満だったのです。なぜ「王族の女性」であることが、女の子にとって最上の、もしくは唯一のロールモデルとして推奨されねばならないのか?

ところが最近のディズニーは、この「王族の娘」という意味のプリンセスを「統治者としての王族」を読み替えて「民衆を導く存在」として再定義し始めたらしいのです。
私が一番最初に「おっ?」と思ったのは、「ちいさなプリンセス ソフィア」のスピンオフである「アバローのプリンセス エレナ」です。宣伝が"This princess is learning to lead."と謳っているように、エレナは人々をleadする存在としてのプリンセスとして設定されていることがわかります。

モアナの場合はこの「民衆を導く存在としてのプリンセス」と、「自分の居場所を変える」という前述の要素との合わせ技を使ってきたので、「うおお、うまいことやったなー」と感心してしまいました。もちろん今後ずっとこの路線が使えるとは思えませんが、「プリンセスというロールモデル」にこういう意味づけをしたのはスマートです。
しかも、この「王族の女性」という意味の「プリンセス」から「民衆を導くものとしてのプリンセス」への読み替えを、「王族としての責任がある自分」と「ありたい自分」の間で悩むモアナが、「民衆を導く自分」を選ぶというストーリーをもってして行っているのでちょっと…頭が良すぎる……

それに、女性キャラクターがリーダーとして描かれているのを見るのは素直に嬉しいものです。まだまだ、リーダーになりたがる女の子は"bossy"だと言われたりする世の中ですから。

モアナは星を読み解くポリネシア伝統の航海術を身につけ、民衆を先導します。
ディズニー作品における星は願いや夢の象徴であることが多いですが、今作では導くものとしての役割も与えられているんですね。
ガラスの天井のその上に広がる星を、私たちはようやく掴むことができるのでしょうか?
モアナの背中はこう語っている気がするのです。女の子よ、海に出よ。空に輝く星を道しるべに進め、と。

(3月18日追記。吹替で2回目、字幕で3回目鑑賞済み)
☆相反するアイデンティティはあなたを豊かにする

モアナが「自分は何者か」を歌い上げるナンバー、「I am Moana」において、モアナは「私は誰?私は自分の島を愛する女の子、そして私は海を愛する女の子/私は村の族長の娘、そして私は旅人たちの子孫」と歌います。そしてそれら全てを包括して、「私はモアナ!」と叫ぶのです。
愛する「海」か「故郷」かどちらかを選ばなくても良い、そのどちらへの愛も間違いなく「モアナ」を「モアナ」たらしめるものである…というこの部分、劇中でもアガる部分です。

一見相反するアイデンティティのどちらかを選ばなくて良い、それら全てを含めて自分なのだ、そしてそれはあなたのアイデンティティをより豊かにする……というのは「カンフーパンダ3」でも描かれていたアイデンティティのあり方であったなあと思います。
ちなみに、「自分が何者であるか/ありたいか決めるのは自分自身である」というアイデンティティのあり方は「カンフーパンダ2」的ですね。
モアナの感想なのにカンフーパンダの話ばっかりしてごめんなさいね!カンフーパンダは1も2も3も超ド傑作なので見てない方は是非見てくださいね!

そしてこの「相反するアイデンティティの包摂」という構造、「ディズニーそのもののあり方」についてのメッセージのようにも読めてしまいました。
近年のディズニー作品が「ディズニーによる過去の呪いを解く」ことを掲げる中、「ディズニーは私たちが愛した過去のディズニーを否定しているのか?」と戸惑うディズニーファンの姿もけっこう見かけました。
ディズニーが行なっていることは贖罪なのか?過去作の否定なのか?「モアナと伝説の海」はその問いに対して1つの答えを出していた気がするのです。過剰なくらいのディズニー過去作への目配せ、そしてその先へ…という「モアナ」の物語は、作中でマウイが言う「どこから来たか知っていれば、自分がどこにいるかわかる」という台詞そのものです。
「自分が今までいたところ(故郷)」と「自分が進んでいく/進んで行きたい方向(海)」を同時に愛することは可能だ、私たちはディズニーの歴史を愛している、そしてそれを抱えた上で先に進むのだ、という制作側の気概を見たようで、「その意気や良し!!!」ってなりましたね。

そして「モアナ」の前に併映された短編「インナーワーキング」も、「相反するアイデンティティ」の話でした。監督は日本人とブラジル人の血をひいていて、「自分の中の日本人的な部分とブラジル人的な部分の葛藤から着想を得た」と語っています。
(ただ、私は「インナーワーキング」に関してはその相反するアイデンティティの肯定、にはなっていない気がするのと、デスクワークに対する想像力・敬意の無さが透けて見えるのであまり好きではありません。)

モアナとアイデンティティの話についての余談:

以下雑感を箇条書き。

☆ウォルトディズニースタジオの長編アニメーションで初めての、恋愛要素のないプリンセス映画という点はやっぱり評価したいですね。というか、人間の女の子が主人公かつ主人公が恋愛に絡まないディズニースタジオの長編アニメは「ふしぎの国のアリス」、「リロ・アンド・スティッチ」と今作だけなので、アリスとリロが幼女であることを考えればモアナは革新的なキャラです。

☆ディズニーの女性キャラクターは細すぎてセルフイメージに悪影響!と批判されることがよくありますが、モアナは現実的な体型で良かったですね。キャラクターとしても、あれだけの冒険をこなすだけの力があることに説得力がありますし。

☆「ディズニーの第二黄金期への目配せ」は、ギャグのネタとして挟まれるとけっこうサムい。このサムいギャグのおかげで「ディズニー第二黄金期の語り直し」という作品の構造自体が嫌になっちゃう人もいそうだし、いっそこの手のギャグはないほうがよかった。

☆「自己尊厳の危機を迎えている男性」というマウイのキャラクターも面白いですね。ピクサーではこの手のキャラは多いですが、ディズニーではあまり見ない気が。監督が「モアナは『トゥルー・グリット』のような話だ」と語っていましたが、「少女が目的を遂げる旅」の過程で「男性の自己尊厳回復」と「少女の成長」が同時に行われるあたり、「モアナ」はとても「トゥルー・グリット」的です。あとマウイのman bun(男性のおだんごヘア)、めっちゃ萌えませんでした?


参考:
『モアナ』が王道のディズニープリンセスではない理由とは?

Why Disney Decided to Make Moana the Ultimate Anti-Princess

‘Moana’-Opening Animated Short ‘Inner Workings’: Director Leo Matsuda On The Anatomy Of The Idea
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