Red Notebook 『ジャングル・ブック』ディズニー作品の更なる“ディズニー化” 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2016年08月23日 (Tue)

めちゃくちゃ楽しみにしてた『ジャングル・ブック』、すでにIMAX字幕3Dで2回見たのですが、あまりにバギーラに萌えるのに忙しくてブログに感想を書くのを忘れていました。バギーラ尊い…
 以下ネタバレ有の感想です。

全体の印象としては、ディズニーアニメ版に原作の要素をところどころ付け加えたようなバランスだなと思いました。原作ほど殺伐とはしていないけれど、ディズニーアニメ版よりは暗め。キャラクター設定も、アニメ寄りのキャラと原作寄りのキャラが混ざっていて、特にシア・カーンはかなり原作のイメージに近くなってました。(もともとディズニーアニメ版は原作とキャラ付けがかなり違う。そのせいなのか、原作表記もbased onではなくinspired byとなっていたり。)
 お話の筋は基本的にディズニーアニメ版をなぞりつつ、ディズニーアニメ版では存在そのが希薄だった母親オオカミにスポットライトをあてたり、原作で重要な要素となっている「掟」が取り入れられていたり、ラストが大きく改変されていたりします。
 アニメ版へのリスペクトも随所に垣間見られて、ディズニーアニメ好きならオープニングやエンディングでニヤリとしてしまうことうけあいです。
 映像はとにかく圧倒的なほどビューティフル!マグニフィセント!「少年以外、全てCG」が宣伝文句になっていますが、言われなければCGとは気が付かなさそう。(特に背景)ピクサーの『アーロと少年』といい、CGはここまで現実と見まごう世界を作り出せるようになったんだなあと感動します。世界観の細かな作り込みもいくら見ていても飽きなくて、「あーーーなんか前の方で虫がブンブンとんでる~~バッファローが蹴った泥がカメラにかかってる~~~」とかいう些細なポイントで感動しちゃいます。もうこれは絶対にIMAXで見るのがお勧めです。もうすぐIMAX上映終わっちゃうけど…。

●misfitとbe yourselfの物語
 モーグリの物語として見ると、今作は特に第二次黄金期以降のディズニーに顕著な「はみだし者の主人公」と「自分らしくあれ」という物語の側面が強く感じます。(社会の中でうまく振舞えない主人公が、「自分らしく」あることでハッピーエンドを手にするお話。『美女と野獣』や『アラジン』、『ムーラン』、最近だと『アナと雪の女王』も。)もともとキプリングの原作では、モーグリは人間であるためジャングルに居続けることができず、また人間たちからも恐れられ村から追い出されるという、どこにも属せない苦しみを抱えたキャラクターでしたが、ディズニーアニメ版ではそれほどの葛藤は描写されていませんでした。
 今作のモーグリは、オオカミのようにはなれず、かといってジャングルの掟に従う以上は人間らしい特性を使うこともできない、というジレンマを抱えています。しかし、最後は人間の知恵を使うことでシア・カーンに打ち勝ち、ハッピーエンドを手にします。
 しかし、ここで気を付けなければいけないのは、モーグリが「人間の特性」を発揮するのは『ジャングル・ブック』という作品では危うさをはらんでいるということで…。

●帝国主義とジャングル・ブック
 ラドヤード・キプリングが帝国主義の旗手と見なされてきたことにより、『ジャングル・ブック』もその帝国主義的な側面を長く批判されてきました。
 ものすごーく簡単に言うと、原作の『ジャングル・ブック』においてモーグリは人間であるがゆえに知性を持ち、そして他の動物たちを支配することのできる存在とされています。(それゆえ、動物たちはモーグリの目を見ることができない)この構図は、白人が知性を持たないインド人(…をはじめとした植民地の人々)を支配するよう運命づけられている、とする帝国主義(キプリングの「白人の責務」が有名ですね)とパラレルの関係にあるというわけです。(このあたりはモーグリがインド人であること、インド人の村と白人の関係、ジャングルの動物の中での被差別種族(猿)、など何層にも重なった複雑な構造があるので上記の図式だけで全てを説明できるわけではないのですが、めちゃくちゃ雑にまとまるとそういう感じ。)
 さて、原作やアニメ版のモーグリは、「火を扱う」ことによって人間の大人(man)になり、それゆえジャングルを去らなければならなくなります。しかし、今作ではモーグリが火を手にすることにより一度はモーグリのcoming of ageの物語になるものの、他の動物たちが怯えているのを見て松明を捨てさせることにより、他の動物を支配する存在としての人間の優位性を否定します。モーグリは結局「知恵」を使ってシア・カーンを打ち倒すことになるのですが、この「人間の知恵」を「他の動物を支配しうる特性」ではなく、あくまでジャングルの動物たちの「多様な個性のうちのひとつ」として描こうとしているのかな。
 『ズートピア』でジュディがズートピアの駅に降り立つシーンと同様に、『ジャングル・ブック』で動物たちが水飲み場に集まるシーンもまた、視覚的に明快な多様性の称揚になっていて、いかにも「近年のディズニー作品っぽい」味わいです。

●ライオン・キング
 ところで、今作ってものすごく『ライオン・キング』を彷彿とさせませんか?悪役によって故郷を追われる主人公、父親的存在を殺し、群れのリーダーの場所であるシンボル的な岩を奪う悪役、バッファロー/ヌーが大群で疾走するシーン、悪役を倒し自分の場所を取り戻す主人公……。 しかし、『ライオン・キング』的な貴種流離譚の筋書きをそのまま追ってしまうと、せっかく回避したモーグリの他の動物に対する優位性を復活させてしまうことになるわけで、あくまで母親オオカミであるラクシャを新たな群れのリーダーとしたのは良い落としどころだったのではないかなと思います。

●父親たちのジャングルと母親の復権
 ところで、モーグリの母親であるラクシャにスポットライトを当てているのも、今作の面白いところです。原作やアニメ版には、アケーラ、バギーラ、バルーと父親役になる動物たちはたくさん登場しますが、母親の姿はあまり目立ちません。原作でラクシャが活躍するのはシア・カーンから赤ん坊のモーグリをかばうあたりまでですし、アニメ版に至ってはセリフすらありません。『ラドヤード・キプリング 作品と批評』収録の「茶色の皮膚、白い仮面 『ジャングル・ブック』について」によると、ジャングルは「男的な」世界であり、「女的な」世界である人間の村と対比関係にあるとされています。
 こういうところを踏まえると、ラクシャにスポットライトをあてたのは、男社会であったジャングルにおける母親の復権を目指しているようにも思えます。(父権社会に対する母権社会の台頭、というのは同じく古典ディズニーアニメの実写映画化である『マレフィセント』にも通じるテーマです)

●以下、ファンガール的に萌えくるった点とか雑感
・バルーに “Baloo, look at me. Look at nothing but me.”って言うバギ-ラとかバルーの「爪をたてるなよ」とかやばいですね…相変わらず男夫婦…。
・バギーラとシアカーンのバトルシーンちょうかっこいい
・ビル・マーレイがバルーという配役は『ヴィンセントが教えてくれたこと』のイメージからなんでしょうか。一見自堕落なダメ男が周囲に馴染めない男の子の面倒を見る話。

(参考)
橋本槇矩、高橋和久『ラドヤード・キプリング 作品と批評』松柏社、2003。
How Disney’s New Jungle Book Subverts the Gross Colonialism of Rudyard Kipling
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