ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
ピクサーの中では「ファインディング・ニモ」はそんなに好きな作品ではなかったのですが、WDWのアニマル・キングダムでニモのミュージカルを見たことで株があがり、久しぶりに本編を見返したらやっぱり良い話だったわ…。
というわけで見てきました「ファインディング・ドリー」。
※以下ネタバレありの感想です。
「ファインディング・ドリー」は、「ファインディング・ニモ」におけるマーリンパート/ニモパートのうち、ニモパートの部分をドリーで語り直したようなお話です。
すなわち、何らかのdisabilityを抱える主人公が、それにも拘わらず不可能と思われたことを成し遂げるというお話。
ちなみに、前作と同じ話というのは「だから駄目」という意味ではありません。続編というのは得てして前作のプロットをなぞることが多いですし、それによって続編が面白くなるか、つまらなくなるかは決まりません。
例えば、「トイ・ストーリー2」、「トイ・ストーリー3」は「トイ・ストーリー」と同様、何らかのハプニングによってアンディから離されてしまったウッディたちが紆余曲折を経て家へ帰るという筋書きですし、どちらもとても完成度の高い作品です。
(そもそも、同じ話が何度も語られるのが嫌なら私たちは過去のディズニーアニメの実写化作品に足を運んだりしませんし、グリム童話で読んだことのあるお話をアニメで見ようとは思わないでしょう。)
この「disabilityを抱える主人公が不可能と思われていたことを成し遂げる話」という点で言えば、全体的に「ファインディング・ニモ」よりも「ファインディング・ドリー」の方が語り方は丁寧だと感じました。
例えば、「ファインディング・ニモ」でのニモのdisabilityは「片方のヒレが小さくうまく泳げない」ことなのですが、見ててあまり「ニモ泳ぎ下手だな」とは感じられません(人間に捕まってしまったのも、単に運が悪かったというだけで、「ニモの泳ぎが下手だったから」というようには見えない)。
もちろんこれはマーリンがニモを心配するあまり、実際以上に「ニモは泳ぎが下手」だと思い込み、ニモも無意識のうちにある程度それを受け入れてしまっていた…ということでもあるのでしょうが。
対して、ドリーの物忘れは誰の目から見ても明らかです。さらに今作では、ドリー自身がそのことに悩んでいること、さらに周囲からそれゆえに「君にはできない」と言われてしまうことも描かれています。(まあ、これは主にマーリンなんですけど……。前作のことといい、今作のベッキーのことといい、マーリンは一体何度同じ教訓を学ばなければならないんだ!)
もう一つ上手いと思ったのが、主人公と周囲のキャラクターの信頼関係の積み上げ方。
「ファインディング・ニモ」のクライマックスシーン、「僕にいい考えがある」というニモをマーリンは一度引き止めますが、結局はニモを信頼して手(いやヒレか)を放します。
美しいシーンですが、観客が知っているニモの成長(タンク・ギャングに協力する中で「もうひとりの父親像」であるギルに導かれ 、見事に作戦を成し遂げた)をマーリンは知らないはずなので、ここでマーリンがニモを「信頼」するのにはあまり説得力がありません。
しかし、ドリーの両親がドリーを信頼していたのは、彼ら自身、ドリーが将来困らないよう日常的に訓練を重ね、さらに「幼い頃に、ドリーがちゃんと貝を辿って家へ帰ってくることができた」という経験に基づいています。
そして再び無茶をしようとするドリーを信頼して任せたのも、「例え離れてしまっても、ドリーは自分たちのもとへ帰ってくることができた」という事実があるからです。
私はフィクションにありがちな、一方が(特に具体的な根拠も示さず)「信頼しろ」と強要し、相手がそれに従わないと、まるで「信頼できなかった側が冷たい、悪い」というように描かれる展開がだいっ嫌いなので、「根拠のある信頼」をきちんと描いてくれるのはそれだけで好感が持てます。
そして、ドリーは確かに不可能を成し遂げましたが、彼女の力だけではありません。ニモやマーリン、そしてハンクやデスティニーといった周囲のサポートがあったからこそであり、周囲のキャラクターとドリーとの関係の積み上げも丁寧です。
分かりやすい悪役を作ることをしなかったのもスマートです。
(あえて言えば人間のエゴが悪役なのですが、前作で人間のエゴ代表として描かれていたような歯医者やダーラなどの、分かりやすく「嫌なキャラ」がいない点も、より洗練されています)
気になった点を挙げると、物語の展開上必要なこととはいえ、ハンクの説得が雑だし急すぎる(そもそも、ドリーはハンクが何故海を嫌がるのかきちんと聞いてもいないのに……)のと、ジェラルドの扱いがひっかかります。
だってアシカコンビのジェラルドへの態度、どう考えてもタチの悪いイジメじゃないですか!?
それをギャグとして提示されても居心地悪いですよ……
すなわち、何らかのdisabilityを抱える主人公が、それにも拘わらず不可能と思われたことを成し遂げるというお話。
ちなみに、前作と同じ話というのは「だから駄目」という意味ではありません。続編というのは得てして前作のプロットをなぞることが多いですし、それによって続編が面白くなるか、つまらなくなるかは決まりません。
例えば、「トイ・ストーリー2」、「トイ・ストーリー3」は「トイ・ストーリー」と同様、何らかのハプニングによってアンディから離されてしまったウッディたちが紆余曲折を経て家へ帰るという筋書きですし、どちらもとても完成度の高い作品です。
(そもそも、同じ話が何度も語られるのが嫌なら私たちは過去のディズニーアニメの実写化作品に足を運んだりしませんし、グリム童話で読んだことのあるお話をアニメで見ようとは思わないでしょう。)
この「disabilityを抱える主人公が不可能と思われていたことを成し遂げる話」という点で言えば、全体的に「ファインディング・ニモ」よりも「ファインディング・ドリー」の方が語り方は丁寧だと感じました。
例えば、「ファインディング・ニモ」でのニモのdisabilityは「片方のヒレが小さくうまく泳げない」ことなのですが、見ててあまり「ニモ泳ぎ下手だな」とは感じられません(人間に捕まってしまったのも、単に運が悪かったというだけで、「ニモの泳ぎが下手だったから」というようには見えない)。
もちろんこれはマーリンがニモを心配するあまり、実際以上に「ニモは泳ぎが下手」だと思い込み、ニモも無意識のうちにある程度それを受け入れてしまっていた…ということでもあるのでしょうが。
対して、ドリーの物忘れは誰の目から見ても明らかです。さらに今作では、ドリー自身がそのことに悩んでいること、さらに周囲からそれゆえに「君にはできない」と言われてしまうことも描かれています。(まあ、これは主にマーリンなんですけど……。前作のことといい、今作のベッキーのことといい、マーリンは一体何度同じ教訓を学ばなければならないんだ!)
もう一つ上手いと思ったのが、主人公と周囲のキャラクターの信頼関係の積み上げ方。
「ファインディング・ニモ」のクライマックスシーン、「僕にいい考えがある」というニモをマーリンは一度引き止めますが、結局はニモを信頼して手(いやヒレか)を放します。
美しいシーンですが、観客が知っているニモの成長(タンク・ギャングに協力する中で「もうひとりの父親像」であるギルに導かれ 、見事に作戦を成し遂げた)をマーリンは知らないはずなので、ここでマーリンがニモを「信頼」するのにはあまり説得力がありません。
しかし、ドリーの両親がドリーを信頼していたのは、彼ら自身、ドリーが将来困らないよう日常的に訓練を重ね、さらに「幼い頃に、ドリーがちゃんと貝を辿って家へ帰ってくることができた」という経験に基づいています。
そして再び無茶をしようとするドリーを信頼して任せたのも、「例え離れてしまっても、ドリーは自分たちのもとへ帰ってくることができた」という事実があるからです。
私はフィクションにありがちな、一方が(特に具体的な根拠も示さず)「信頼しろ」と強要し、相手がそれに従わないと、まるで「信頼できなかった側が冷たい、悪い」というように描かれる展開がだいっ嫌いなので、「根拠のある信頼」をきちんと描いてくれるのはそれだけで好感が持てます。
そして、ドリーは確かに不可能を成し遂げましたが、彼女の力だけではありません。ニモやマーリン、そしてハンクやデスティニーといった周囲のサポートがあったからこそであり、周囲のキャラクターとドリーとの関係の積み上げも丁寧です。
分かりやすい悪役を作ることをしなかったのもスマートです。
(あえて言えば人間のエゴが悪役なのですが、前作で人間のエゴ代表として描かれていたような歯医者やダーラなどの、分かりやすく「嫌なキャラ」がいない点も、より洗練されています)
気になった点を挙げると、物語の展開上必要なこととはいえ、ハンクの説得が雑だし急すぎる(そもそも、ドリーはハンクが何故海を嫌がるのかきちんと聞いてもいないのに……)のと、ジェラルドの扱いがひっかかります。
だってアシカコンビのジェラルドへの態度、どう考えてもタチの悪いイジメじゃないですか!?
それをギャグとして提示されても居心地悪いですよ……
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