Red Notebook 『南部の唄』って結局何が問題だったの?という話 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
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2020年06月29日 (Mon)

6月26日、カリフォルニアのディズニーランドとフロリダのマジック・キングダムにあるスプラッシュ・マウンテンが『プリンセスと魔法のキス』のアトラクションとしてリニューアルされることが発表されました。


現在のスプラッシュ・マウンテンは、ディズニーの1940年の作品、『南部の唄』のアトラクションです。『南部の唄』は、ディズニーファンでない方にはあまり馴染みのない作品かもしれません。なぜなら「人種差別的だ」との批判を受けたため、ディズニーは本作のDVDやBlu-rayを販売していないからです。私は10年以上前にかつて日本で販売されていたVHSをオークションで落として鑑賞しましたが、今はさらに値段が高騰してるので入手はかなり難しいかと思います。

 さて、スプラッシュ・マウンテンについては、「『南部の唄』は人種差別的な作品なので、『プリンセスと魔法のキス』のアトラクションに変えてほしい」という署名運動がネット上で行われていました。

 ただ、この運動がSNS上や署名サイトで盛り上がりを見せたのは今年の6月上旬以降。ディズニーによるスプラッシュ・マウンテンのリニューアル自体は昨年から構想されていたようなので(つまり、2020年のBlack Lives Matter運動の盛り上がりよりも以前)、署名を受けての決定ではなさそうです。

 まあ、ディズニーみたいな大企業がたかだか数週間でアトラクションのリニューアルを決めてコンセプト画まで出せるわけがないしね……。例の署名については、私はディズニー側がリニューアル情報の正式リリース前に署名を作って(もしくは意図的に情報を漏らして)ネットの反応を見ようとしてたんじゃないかなーと邪推しています。

 この件について、「人種差別的な映画に基づいているとの批判があったからスプラッシュ・マウンテンをリニューアルすることに決めた」という報道が多かったですけど、この書き方はちょっとミスリーディングなような。

 『南部の唄』に対する批判は映画公開の1946年当時からされていましたし、1970年にはディズニー映画の配給だったブエナ・ビスタが『國民の創生』になぞらえて「『南部の唄』は公開するにふさわしくない」と明言したり、1981年にも映画館での上映(おそらく映画祭のような限定公開?)に際しては、小規模な抗議活動が行われています。

 そうした批判にもかかわらず『南部の唄』は1956年、72年、80年、86年にも再上映され、1989年にはディズニーランドで「スプラッシュ・マウンテン」がオープンしました。
 別に近年急に『南部の歌』や「スプラッシュ・マウンテン」に対する批判が高まったわけではありません。

 そんなわけで、上記のニュースに関して『南部の唄』に関する議論がいろんな意味で盛り上がったわけですが、一部のディズニーファンが「『南部の唄』は人種差別的じゃないよ!」と断言していたり、Wikipediaの『南部の唄』のページについても本作が批判された理由をいまいち正確に書いておらず、モヤモヤしたので勢いでいくつか本を読んでまとめてみました。

 ……というわけで、『南部の唄』ってなに? 何が問題なの? 年齢は? 恋人はいるの? 調べてみました!

★『南部の唄』概要

 『南部の唄』は、ジョーエル・チャンドラー・ハリスというアメリカの作家が、南部の黒人から採集した昔話や民話を集めた「リーマスおじさん」のシリーズが原作となっています。舞台は奴隷解放宣言後の再建時代(リコンストラクション)アメリカ南部。元奴隷のリーマスおじさん(アンクル・リーマス)が、白人の男の子に「ウサギどん」や「キツネどん」など、動物の話を聞かせてあげるという物語構成です。
(※リコンストラクション……南北戦争後、奴隷制の崩壊により混乱を来した南部諸州の再建を図った時代。1863年~1877年ごろ)

 『南部の唄』も同じく、リコンストラクション時代である1870年代、アメリカ南部のジョージア州(たぶん)が舞台となっています。主人公は白人の男の子、ジョニー。ふだんはジョージア州最大の都市であるアトランタに住んでいますが、プランテーションの経営をしているおばあちゃんの家に両親と共に遊びにやってきます。しかしお父さんは仕事でアトランタに戻ることになり(この当りの理由はふんわりとしか描かれていないので不明瞭)、ジョニーと母親をプランテーションに置いていってしまいます。父親に置いて行かれたことに打ちひしがれたジョニーは、家出して一人でアトランタに帰ろうとしますが、農場で働く元黒人奴隷の「リーマスおじさん」と出会い、彼が語る「ウサギどん」のお話を聞くうちに、家出を思いとどまります。その後もジョニーはリーマスおじさんとの交流を深め、「ウサギどん」の話を聞くうちに、いじめっ子のかわし方を覚えるなど成長していきます。しかし、ジョニーの母親はリーマスおじさんがジョニーにウサギどんのお話をするのは教育上良くないと思っており、リーマスおじさんを遠ざけようとし……というのがあらすじ。

 本作ではジョニーとリーマスおじさんをめぐる部分は実写映画として、リーマスおじさんが語る「ウサギどんのお話」はアニメーションとして描かれます。『南部の唄』はディズニー作品の中でも実写とアニメーションの融合が高いレベルで行われた初期の作品として、またアカデミー賞も受賞した優れた楽曲で評価されています。

 ちなみに、J. C. ハリスの原作では「男の子」と「リーマスおじさん」の交流はメインとなる動物の話の前後に断片的に会話が挟まれるだけですので、ジョニーとリーマスおじさんをめぐる『南部の唄』の実写パートは、ほぼディズニーのオリジナル・ストーリーとなっています。(実写パートとアニメーションパートの比率は2:1くらいなので、ディズニーのオリジナル・ストーリーの部分が半分以上を占めていると言っていいでしょう)

★何が問題だったの?

 さて、そんな『南部の唄』ですが、公開当時から様々な批判を浴びてきました。
 公開当時になされた批判で最も有名なのは、全米黒人地位向上協会(NAACP)の当時の代表者であったウォルター・ホワイトが発した声明でしょう。


全米黒人地位向上協会は、『南部の唄』はその音楽と、実写俳優とアニメーションの融合技術において、優れた芸術的価値を有すると認識しています。しかしながら、北部と南部のどちらの観客も不快にさせないようにする努力のために、本作が奴隷制の美化されたイメージを存続させる一助となっていることは遺憾であります。残念ながら、『南部の唄』は「リーマスおじさん」の美しい民話を使って奴隷と主人の関係に牧歌的な印象を与えており、それは事実を歪めています。

The National Association for the Advancement of Colored People recognizes in “Song of the South” remarkable artistic merit in the music and in the combination of living actors and the cartoon technique. It regrets, however, that in an effort neither to offend audience in the north or south, the production helps to perpetuate a dangerously glorified picture of slavery. Making use of the beautiful Uncle Remus folklore, “Song of the South” unfortunately gives the impression of an idyllic master-slave relationship which is a distortion of the facts.(Cohen  60)


   日本語版のWikipediaの『南部の唄』のページには、上記のNAACPによる抗議内容について「『作品内で対等のように白人と黒人が交流している。当時のアメリカではそのようなことはありえないことであり、誤った歴史認識を招く恐れがある』という旨である。」と記載されており、引用元も出典も不明なのですが(2020年6月29日現在)、NAACPの主張をどう訳したらそういう理解になるのか全く分かりません。(英語版Wikipediaは上記と同一の声明文を引用しています)(2020年7月1日追記)(※Wikipediaの記述が修正されているのを確認しました。修正してくださった方、ありがとうございます……!)

 そもそも、「白人のプランテーション主とその家族」と「元奴隷の黒人」が登場する話で、「白人と黒人が対等な存在として描かれているな」って思うわけないじゃん……。劇中でも、黒人たちからジョニーの祖母は「奥様」、ジョニーの母親は「サリー様」、ジョニーは「ぼっちゃん」と呼ばれており、明確に立場に差があることが示されています。NAACPの声明はむしろ、立場が不平等であるにも関わらず、「元奴隷である黒人のキャラクターが、プランテーション主の家の子である白人のキャラクターを助ける」という交流を「微笑ましいもの」として扱い、立場の不平等を覆い隠そうとしていることを批判しているのでは?

 そのほか、公開時にはいくつかの雑誌・新聞でも、『南部の唄』は批判を受けました。
 Ebony(アフリカ系アメリカ人向けの月刊誌)においては、『南部の唄』は「白人のプロパガンダ(lily-white propaganda)」であり、「黒人が白人の前でどのように振る舞うべきかの手本として「白人へのへつらい」(Uncle Tomism)を喧伝している」、として痛烈に批判しています。また、リーマスおじさんを演じたジェームズ・バスケットについては、「彼は『愛すべき』広告塔としての役目を果たしている――南部の観客にとっては、自分たちにへこへこする黒人はさぞかし『愛すべき』ことだろう。“He lives up to his “loveable” billing ”—certainly to Dixie audiences for whom any Negro who bows and scrapes is “loveable.””(Cohen 61)と述べています。

 また、映画評論家のボズレー・クラウザーは、The New York Timesで下記のように本作を評価しています。


いくら子ども向けのフィクションとはいえ、あなたのお話では主人と奴隷の関係があまりにも優しいものとして描かれていますよ。黒人たちがぺこぺこして、夜にはスピリチュアルを歌っているのなんて、あなたがエイブ・リンカーンは間違ったことをしたと考えてるんじゃないかと思われるかもしれませんよ。

 No matter how much one argues that it’s all childish fiction, anyhow, the master-and-slave relation is so lovingly regarded in your yarn, with the Negroes bowing and scraping and singing spirituals in the night that one might almost imagine that you figure Abe Lincoln made a mistake.(Crowther)


(※このレビューは親が子どもにお説教をするように、筆者がウォルト・ディズニーにお説教をするという体で書かれています)

  ディズニー側も製作時から本作が問題をはらむ題材であることは承知していたようで、本作の脚本家の一人であるモーリス・ラプフは次のように語っています。 


1944年にラプフとディズニーが初めて出会ったとき、ディズニーはこのプロジェクトのテーマの扱い方には人種的偏見があること、それを修正し、映画を誰もが楽しめるようにするのがラプフの仕事だということを極めて明確にしていた、とラプフは言う。ラプフによれば、ディズニーはラプフが左翼の脚本家であることを知っており、リベラルな人物であれば潜在的な問題を避ける方法が分かるかもしれないので彼を雇いたいとほのめかしていた。

 He[Rapf] says Disney made it quite clear to him when they first met in 1944 that the existing treatment for the project had a racial bias and that it would be Rapf’s job to make changes that would make the feature acceptable to all. According to Rapf, Disney indicated that he knew Rapf was a left-wing screenwriter and wanted to hire him in the hope that a liberal could figure out how to avoid the potential problems that existed in the treatment.(Cohen 62)


(この文中でのtreatmentの適切な訳し方が分からなかったので訳が妙なかんじになってしまいました。どなたかお知恵を貸してください……)
 これを受けてラプフは、脚本から人種差別的な偏りをなくすよう努力します。「ウサギどんなど黒人を表すキャラクターは、力ではなく知恵で白人のキャラクターを出し抜く」「貧乏な白人の家庭も登場させる」「ジョニーの父親は黒人のお手伝いさんたちに給料を払えるように仕事を探しに行った」などの工夫をこらしました。
 しかし、ラプフが他の脚本家であるダルトン・レイモンドとの口論によりプロジェクトを離れたあと、脚本は大幅に書き換えられてしまいます。

 ラプフが映画の最も侮辱的な欠陥だと感じているのは、プランテーションの働き手のステレオタイプな描き方だ。彼らは歌うのが好きな幸せな人々として描かれている。ラプフは映画の終わり近くの、使用人たちがスピリチュアルを歌って白人の少年の回復を祈るシーンをスタジオが削除した方が良かったと考えている。[略]彼はクロエを、白人の家族のもとで働くのが自分の分とわきまえている、ステレオタイプな笑顔のメイドとして描くことには反対した。[略]メイドと幸せなプランテーションの働き手というのは、アフリカ系アメリカ人のコミュニティでは不愉快とみなされるステレオタイプだった。

Rapf feels the most offensive flaw in the production was the stereotyped depiction of the plantation workers. They are shown as happy people who love to sing. Rapf would have preferred that the studio omit the sequence near the end of the film where the servants sing spirituals and pray for the recovery of the little white boy.[…].He does object to depicting Chloe as a stereotyped smiling maid who knows her place working for a white family.[…].The maid and the happy plantation workers were the kinds of stereotyped characters the African American community found objectionable. (Cohen 63)


 ここまでをまとめると、『南部の唄』に対する批判としては主に下記の要素があることが分かります。
①現実には白人が黒人を搾取している時代だったにもかかわらず、黒人が白人に仕えていることが幸せだったかのように描いている。
②黒人が白人にたいしてへつらっているように描かれている
③黒人キャラクターがステレオタイプな描き方をされている。

 それから、リーマスおじさんは常にジョニーの手助けをし、ジョニーが成長するためのきっかけをつくる人物として描かれており、彼自身のバックグラウンドや内面の変化はほとんど描かれません。彼の行動の動機は常に「ぼっちゃん(ジョニー)の助けになりたい」になっています。しかも、なぜ彼が最初からそこまでジョニーに入れ込んでいるのかはよく分かりません。また、クライマックスで意識不明になったジョニーは、なぜかリーマスおじさんのお話を聞くことで奇跡的に復活します。(なんで?)

 リーマスおじさんとジョニー少年の交流は心温まるものとして描かれていますが、こうしたキャラクター造形が、いわゆる「マジカル・ニグロ」的な側面があることも無視できないでしょう。(この用語もあまり使いたくないですが……)
(※マジカル・ニグロ……白人の主人公を助けるためだけに登場する黒人のキャラクター。自らが持っている古くからの知恵や神秘的な力によって白人のメインキャラクターを助ける。)
 上記の①~③と合わせて考えても、「白人にとって都合のよい黒人像」を描いている……というところが一番の問題として考えられているのかなと思います。
 リーマスおじさんは、とても温かみのある優しい人物として描かれており、この人物像を演じる上でジェームズ・バスケットは確かに素晴らしい仕事をしていると思うのですが、それがかえって、「白人にとって好ましい黒人像」と受け取られているようです。

★よくあるしつもん

.奴隷制を美化しているって批判されてるけど、奴隷解放後の話でしょ? 批判者が奴隷制の時代の話だって勘違いしているだけで、問題ないんじゃない?

.たしかに、『南部の唄』は奴隷制時代を描いているという誤解に基づいた批判を受けることがよくあります。映画の中で明確に時代設定が示されていないからです。(ちなみに、ディズニーは本作の製作中にヘイズ・オフィス(アメリカ映画製作配給業者協会)から「舞台が1870年代だということが分かるよう、冒頭に示すように」とのアドバイスを受けていますが、何故かこの助言には応じていません。)
 しかしながら、奴隷解放後の時代が舞台だからといって、『南部の唄』における描写に問題ないということにはなりません。奴隷解放直後に、南部の白人と黒人の関係がそんなに劇的に変わるものではないですし……。
 南北戦争後、「再建法」によって南部諸州がアメリカ合衆国に復帰したのち、1865年から1866年にかけては「実質奴隷法と変わらない」と言われるほどの黒人取締法(ブラック・コード)が成立しています。この法律により黒人は旧主人のもとでの労働に縛り付けられ、移動の自由や職業選択の自由も規制されていました。中には、契約を結ぶ際、「黒人は使用人とされ、彼らが契約を結ぶ者は主人と認識されるべきである」(クォールズ 162)と明記した州法もありました。
 奴隷解放後も土地は白人のものであり続けたため、解放された後も多くの黒人は生まれ育ったプランテーションに残り、多くは小作人として働きました。しかし、農場主と小作人の関係は極めて従属的で、解放民は借金まみれとなり、ますます土地に縛られることとなりました。


南部は敗北したが、白人の黒人奴隷に対する思考パターンに変化が生じたわけではなかった。奴隷解放宣言と内戦の勝利だけでは、文化と生活習慣に根ざした奴隷制度という太い根っこを引き抜く力とはなり得なかったといえよう。このことは、南北戦争後の一〇〇年間の南部における人種関係を理解するうえでも不可欠である。……(中略)……結局、南部に残った黒人奴隷の多くは、解放されたというのは名目上のことで、実質、何ら変わらないプランテーションの日常に戻っていった。(バーダマン 96-97)

 また、リーマスおじさんはジョニーの父親が幼少のころからプランテーションで働いていてたことが示されているため、時代設定からして少なくともジョニーの父親の幼少期には、まだ主人と奴隷の関係であったことが推定できます。ですから、この映画において白人と黒人の関係を完全に奴隷制から切り離して考えるのは無理があるでしょう。
 話題になったNetflixのドキュメンタリー映画『憲法修正第13条』においても、奴隷制時代から現代に至るまで、黒人の労働力が法の後ろ盾により構造的に搾取されてきたことが告発されていますが、そうした搾取をのどかで牧歌的な風景として描くことで、映画が結果として構造的な搾取を覆い隠す効果を持ってしまっていることは否定できません。

(2020年6月30日追記)
 上記の点に加えて、「白人のプランテーション主のもとで働く元黒人奴隷は幸せだった」という歴史観は、白人奴隷所有者の人種差別的な価値観と非常に近しいものであるということを抑えておく必要があります。つまり、「白人のプランテーション主のもとで、元奴隷の黒人たちは幸せに仲良く暮らしていました」というイメージを振りまくことは、「昔は良かったなあ、奴隷は従順でよく働いてくれたし、暮らしぶりも豊かで、みんな仲良く暮らしていたよね」という人種差別主義的な歴史観を肯定してしまう作用を持つわけです。


かつての奴隷所有者たちは、黒人は「劣等で、無力で無邪気だ」と思い込んでいた。したがって、何もできない元奴隷たちを「保護し世話をする」のが自分たちの義務である。さもないと、解放された黒人たちは路頭に迷ってしまう。慈悲あふれる「オールド・マッサ」すなわちオールドマスターである家長が「どうすることもできない子どもたち」に親のような慈愛をふりそそぎ、「部外者」つまり北部の人間と解放された黒人たちの悪影響から守る。「オールド・マッサ」は、南部の黒人にとっての「親友」であり、「奴隷解放」は戦争がもたらした「不幸」、さらに言えば「悲劇」である。黒人の元奴隷たちは自ら生計を立てることなど所詮無理であるので、再び自分たちの農園に戻り、そこで収穫の仕方について手ほどきを受ける。そうすることが白人の義務であるといったのが、白人「マッサ」たちの理屈であった。[略]白人の優越性、プランテーションでの幸せな労働、白人家族との従順な生活、何に不満があったというのだろう、まったく理解できない、というのが、白人奴隷所有者たちの素直な、しかしあまりにも鈍い感覚であった。(バーダマン 96)

 
Q.NAACPの代表であるウォルター・ホワイトは、映画を見ていなかったって聞いたけど。NAACPの批判は勘違いに基づいているんじゃないの?

A.確かにウォルター・ホワイトは(少なくとも上記の声明を出した時点では)作品を見ていなかったようですが、彼が出した声明はNAACPの他のメンバー(Norma Jensen、Hope Springarn)からの意見に基づいており、この二人はプレス向け試写で作品を見ています。二人は作中の「大きな家の外で黒人たちが集まって歌っているなどのステレオタイプな描写」や「Negro dialectを使っていること」等、問題点をリスト化してホワイトへ送っていました。
 このNegro dialect(いわゆる黒人英語)の扱い方についてはけっこうセンシティブな問題らしく、しばしば侮辱的と捉えられるようです。(「トムとジェリー」に登場する黒人のお手伝いさん(Mommy Two-Shoes)なども、dialectがしばしば吹き替えられたりしているそう)私は英語母語話者でなく、また『南部の唄』を日本語吹替版でしか見たことがありませんので、なかなかピンとこないところではありますが、前述の映画公開時のEbonyの記事においてもリーマスおじさんの“dis”や“dat”を多用する話し方は批判されていましたので、この点を問題と捉える場合も多いようです。

★じゃあ、結局『南部の唄』ってめちゃくちゃ差別的な作品なの?

 ここまで、『南部の唄』のどういった点が問題とされてきたのかを確認してきましたが、じゃあ、DVDやBlu-rayにもならないくらいだから、過去のディズニー作品の中でもハチャメチャにやばい作品なのか? と聞かれたら、まるで『南部の唄』がディズニー作品の中でも最も人種差別的な作品かのように扱われるのはフェアではないと思います。
 たとえば、『國民の創生』のようにものすごく人種的偏見を助長するとか、1920年代~40年代ごろの古いアニメーションにありがちな、現代の視点で見たらぎょっとするほどのカリカチュアがあるわけではありません。
 古いディズニー作品には悪名高い『ダンボ』のカラスや『ピーター・パン』のネイティブ・アメリカンの描写、ミッキーマウスの短篇“Trader Mickey”(1932)など、枚挙に暇がないほどの人種差別的な表現がありますが、それらはDVDを出せるけど、『南部の唄』はダメ、というのは基準がよく分からない。戦時中のプロパガンダ作品だってDVD出てるのに……。
 ただ、(その程度については議論の余地があるにしても)『南部の唄』が問題のある作品であることは疑いようのない事実であって、映画公開時に複数のアメリカの黒人コミュニティが「問題がある」と表明したものについて、外野が「人種差別的じゃないよ!」って言ってしまうのはめ~~ちゃくちゃ危ういから気をつけようね。


引用文献:
Cohen, Karl F. 2004 Forbidden Animation: Censored Cartoons and Blacklisted Animators in America, McFarland Publishing
Crowther, Bosley “SPANKING DISNEY; Walt Is Chastised for 'Song of the South'” The New York Times
https://www.nytimes.com/1946/12/08/archives/spanking-disney-walt-is-chastised-for-song-of-the-south.html
クォールズ、ベンジャミン 1994『アメリカ黒人の歴史』明石紀雄・岩本裕子・落合明子訳、明石書店
バーダマン、ジェームス・M 2011『アメリカ黒人の歴史』森本豊富、NHK出版

参考文献:
ハリス、J.C. 1953『ウサギどん キツネどん』八波直則訳、岩波書店
ハリス、J.C. 1983『リーマスじいやの物語 アメリカ黒人民話集』河田智雄訳、講談社
貴堂嘉之 2019『シリーズ アメリカ合衆国史② 南北戦争の時代』岩波書店
「マジカル・ニグロ」、米ハリウッド映画に見る人種差別問題https://www.afpbb.com/articles/-/3139133
Nostalgic Woman: Song of the South
https://www.youtube.com/watch?v=EFe2y4NWwaY&t=370s



★以下、スプラッシュ・マウンテンがリシーミングされることについてのいちディズニーファンのモヤモヤを書き出しただけです。全然整理されてないし自分の中で結論も出ていないので、物好きな方だけ読んでね。


 


前述のとおり、『南部の唄』の実写パートの描写に問題があることは否定できないにしても、アカデミー賞を受賞した楽曲や、生き生きとしたアニメーションの楽しさなど見るべきところはある作品です。『南部の唄』を臭いものにフタをするように扱ってきたディズニーは、作品の功罪両面を認めるべきである、というのはそうでしょう。
だからHBO Maxでの『風と共に去りぬ』の配信のように解説動画をつけてディズニープラスで配信するか、同じく解説動画を付けてコレクター向けにでもいいので円盤化してほしいと思っています。
でも、『南部の唄』の功罪を認めるということは「スプラッシュ・マウンテン」というアトラクションにおいてやるべきなのか? と言われたら……それもなんか違うんだよな……。
そもそも、たとえば銅像がその人物の功績を讃える機能を持つように、アトラクションは元になった映画作品を称揚する効果を持つんでしょうか?
ディズニーの実写+アニメーション作品の中で、『わが心にかくも愛しき』や『ベッドかざりとほうき』よりは『南部の唄』の方が知られていることを思えば、確かにアトラクションは映画作品を人々の心の中に残す強い力を持っているでしょう。それも、好意的な印象で。(もちろん、『南部の唄』が比較的知られている理由はその内容が問題視されているということとも不可分なのだけれど……)

アトラクションが映画作品に対する印象を左右する力を持っていることを考えれば、「スプラッシュ・マウンテン」が『南部の唄』で問題視されている実写パートとはほとんど関わりがないからといって、アトラクションを作品と完全に切り離して考えるべきだ、という態度もまた楽天的すぎる気がします。『南部の唄』のVHSやDVDが出ていないとはいえ、1986年までは劇場上映があったわけで、その際に作品を見てその描写に嫌な思いをした人からすれば、「スプラッシュ・マウンテン」がどういう存在だったかということも切り捨てていいこととは思えないし……。

「スプラッシュ・マウンテン」はパークにあるべきではない、とは思わないけれど、「スプラッシュ・マウンテン」をリニューアルするとしたら、あえて『南部の唄』にこだわる必要はないだろうな、というのが気持ちとしての落としどころなのでしょうか。
そもそも、今回のディズニーの決断が「『南部の唄』をテーマにしたスプラッシュ・マウンテンがパークにあるのはまずいよね」から始まっているのか、「そろそろスプラッシュ・マウンテンをリニューアルしたいね」から始まっているのかも分からないんですよね。ディズニーは「人種差別的だとの批判を受けたのでリニューアルします」とは一言も言っていない(し言うわけない)ので。
パークのアトラクションは絶えずリニューアルを繰り返しているので(「ディズニーランドは永遠に完成しない」)、「スプラッシュマウンテンをリメイクする」ということ自体は、パークの経営方針上、他のアトラクションと同様に起こりうることです。

はたまた「プリキス」先行型で、「今のパークのアトラクションって、あまりにも白人キャラクターに偏ってるよね。そうだ、『プリンセスと魔法のキス』のアトラクションを作ろう。場所は……ニューオーリンズエリアに近いしスプラッシュ・マウンテンをリニューアルしようかな。どちみち『南部の唄』ってセンシティブだからいつまでもパークに残しとくのもね」みたいな感じかもしれない。
もしくはもっと単純に、「より現在のゲストに馴染みのある物語のアトラクションにしたい」ということなのかもしれない。「トワイライト・ゾーン」のアトラクションだった「タワー・オブ・テラー」が、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のアトラクションにリニューアルされましたが、「トワイライト・ゾーン」が問題だから変えられたわけじゃないですし。
ディズニーが何を起点に今回の決断に至ったかが分からない以上、あまり言えることはないのかもしれません。

『プリンセスと魔法のキス』は好きな作品だし、たぶん完成したら素晴らしいアトラクションになるだろうことは間違いないんですよね。コンセプト画の時点でめちゃくちゃ楽しそうだもん。今までも大好きなアトラクションがリニューアルされて寂しい思いをしたことは何度もあるし、今回のリニューアルに対しての気持ちも、根本的にはそれらと変わらないんだと思う。(そもそも東京のスプラッシュ・マウンテンがリシーミングされるかは分からないし)
今はただ、慣れ親しんだものがなくなってしまうのは寂しいという自分の気持ちを、素直に抱きしめていたいと思います……。
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