Red Notebook 『ズートピア』Whatever happened to the American Dream?/何がアメリカンドリームに起こったか 忍者ブログ
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ディズニーとか映画とか。All I can say is this: listen to me. My name is Raito. That is not my real name.
2024年11月22日 (Fri)
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2016年04月23日 (Sat)

私は近年のディズニー作品について、「アナと雪の女王」も「マレフィセント」も実写版「シンデレラ」も、「過去のディズニー作品(とくにプリンセスもの)における価値観を批判的にアップデートしている」と考えています。
もちろん、近年の作品に限らずディズニー作品は常に価値観のアップデートを続けていたわけですが。
「ズートピア」も間違いなく、この流れの中にある作品でした。具体的にどのへんがって、これ「プリンセスと魔法のキス」の精神的続編ですよ。


以下ネタバレなし(とおもう)感想です。



「アナと雪の女王」「マレフィセント」は今までのプリンセスものへの反省から生まれ、「プリンセスと魔法のキス」におけるアメリカンドリームの描き方への反省から「ズートピア」は生まれたわけです。

さて、「プリンセスと魔法のキス」は、もはやアメリカの象徴となってしまったディズニーが「真にアメリカ的な美徳」を模索した作品でした。
そして「アメリカ的な美徳」とは、あなたが何者であろうと、才能があれば、努力すれば、誰しもが成功する可能性があるということ、なりたいものになれるということでした。
Anyone can be anything!すなわちアメリカン・ドリーム。
そもそもウォルト・ディズニーはアメリカン・ドリームの体現者でもあるわけです。
スーツケースと夢だけ持ってカンザスからハリウッドにやってきた青年が、世界に名だたるメディア王国を作り上げたのですから。
それで、スーツケースに詰めた夢のその先はどうなったんでしょう?


周知のとおり、現実にはアメリカン・ドリームは挫折し続けてきました。その原因はいろいろとありますが、ズートピアで描かれるのは人種差別主義の問題です。
「プリンセスと魔法のキス」のティアナは夢を叶え、愛を手に入れました。
まさにアメリカン・ドリームの体現者となったわけです。
でも、初のアフリカン・アメリカンのディズニーヒロインという鳴り物入りで現れた彼女が、黒人であるゆえに受けたであろう苦難についてはほとんど語られませんでした。
黒人差別はもう無くなったから?とんでもない。
2014年ごろから盛り上がっているBlack Lives Matter運動では、黒人が不当に警察に射殺されていることを受け、警察の人種バイアスが批判されています。
今年のオスカー授賞式で白人中心主義が批判された#Oscarsowhiteも記憶に新しいですね。

差別の無い理想の世界を描くというのは一見「理想を描いているだけ」で害の無いものに見えますが、実際にそこにある差別を無いものとしてしまうことでもあるので、また別の問題をはらんでいると思っています。

さて、公開前から話題になっていましたし、映画を見た方ならとっくにおわかりかと思いますが、ズートピアはアメリカのメタファーです。多様な人種が入り混じりながら、平和のうちに暮らしている夢の国。誰もがなりたいものになれる場所。

たしかに形の上では、あなたが何者であろうと平等にチャンスがあるのかもしれない。
けれどそもそも生まれついた環境によってはチャンスが与えられていないことだってあるわけです。

このアメリカン・ドリームの欺瞞については、「ウェスト・サイド・ストーリー」の「アメリカ」というナンバーで的確に皮肉られています。


GIRLS
Life is all right in America
アメリカでの生活は素敵


BOYS
If you're all white in America
それは白人ならの話


GIRLS
Here you are free and you have pride
ここでは自由に生きられるし尊厳があるの


BOYS
Long as you stay on your own side
自分の立場をわきまえているかぎりはね


GIRLS
Free to be anything you choose
アメリカでは自由になりたいものになれる


BOYS
Free to wait tables and shine shoes
ウェイトレスや靴磨きになるのも自由ってわけさ


ズートピアの住人たちは見かけ上は平等で、「誰もがなりたいものになれる」と謳っていますが、実際には様々な偏見によって「自分がなりたい自分であること」は困難になっています。

人種のメタファーを動物で描いたことによる効果で上手いなあと思ったのが、"生物学的"というワードを出してきたところ。
これ、偏見を正当化するときの頻出ワードですよ。
肉食獣は他の獣を食べる。たしかにここまでは「生物学的」かも。でも、じゃあ「肉食獣は草食獣に比べて凶暴だ」「草食獣は肉食獣に力で劣る」だったら?
思わず頷いてしまいそうですが、これは種族にもよりますし、個体差にもよるので一概には言えません。
つまり「ズートピア」が訴えているのは、どこまでが本当に「生物学的」で、どこからが社会的に作られたステレオタイプかなんて極めて曖昧だし、仮に本当に生物学的に正しいとしても個体差は必ずあるのだから、「生物学的」をエクスキューズにするのはやめろということなんです。
そしてその「生物学」だって合っているかは分からない。
「ジャンゴ」に、レオナルド・ディカプリオが頭蓋骨を取り出して「黒人の骨はこうだから黒人は生物学的に奴隷になるのが適している」というようなことを、もっともらしく話すシーンがあります。
今から見たら馬鹿馬鹿しいかもしれませんが、この骨相学が大真面目に信じられていた時代があったんですよ。

人種だけでなく、あらゆることに対して社会的なステレオタイプは私たちを取り巻いています。
男だから/女だから/ヘテロセクシャルだから/ホモセクシャルだから/障がいがあるから/etcetc....

では、ステレオタイプの溢れたこの世界でどうやって生き残るか。
ひとつはジュディのように努力によって自分の実力を証明する道。
これはたいへんな努力を伴いますし、少しでも失敗しようものなら「やっぱりウサギに警官なんて…」という言葉がついてまわる茨の道です。
二つ目は、ニックのようにステレオタイプをあえて引き受ける生き方。(おそらくニックほど意識的ではなくても、内面化することによって生き残ろうとしている人はたくさんいるでしょう)これは一見楽に見えるけれど、しんどいですよ。ニックを見ればわかるじゃないですか。ほんとしんどいよ……。

そして、主人公2人はともにステレオタイプに苦しめられている存在でありながら、彼ら自身もまた偏見を持つ存在なのです。決して単なる被害者でない。彼らの中にだって問題はある。
「キツネはずる賢い」とか、「ウサギはすぐ感情的になる」とか。
けれどもジュディが偉いのは、自分の過ちを素直に認めてそれを乗り越えようとしたこと。

どうやって自分の中の偏見を克服するのか。
目の前の相手に向き合うしかない。
しんどくてもめんどくさくても傷ついても、ただ向き合うしかない。
間違いを犯してもなんどもトライするしかない。
(まさに主題歌トライ・エブリシングのメッセージですね。)

本編の中でも、目の前にいる相手をステレオタイプに当てはめていると、相手のことが全く見えなくなってしまうという状況をギャグとして描いていましたね。(「ゾウは記憶力が良いからね!」)

まずは自分を変え、そして社会を変えるためにメッセージを発していくしかない。
それは同僚へ向けたスピーチかもしれない。
それはポップ・スターの主催するデモかもしれない。
ディズニーという巨大な会社が作るアニメーション映画かもしれない。
そして「ズートピア」はまさにエンターテイメントの力をもってして、そのメッセージを世界中に届けたわけです。

追記:
「プリンセスと魔法のキス」に批判的な書き方みたいになってますけど、私プリキス大好きですよ!!
「プリンセスと魔法のキス」だって、そもそも過去のプリンセスものの価値観を批判的にアップデートした一例ですから。
ディズニーが本当にえらいと思うのは、常に作品に対する批判を受け止め、アップデートを絶やさない姿勢だと思うのです。

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